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★津軽三味線『藤秋会』家元★加藤訓の公式ブログ 2019年05月18日
海上自衛官との別れを告げ七五三に入社した私はそれまでの生活と一変、日々朝から晩まで津軽三味線を追求する日々に変わった。

当時はまだまだ若い人が津軽三味線で身を立てようなどと思う人は少ない時代。
昔よりも意識は少しずつ変わりつつはあったろうが、まだまだその職業に対する評価は高くはなかった。
その事をはっきりと感じたのはその後に秋田に帰って来てから。

秋田市内の民謡酒場の専属伴奏として店に出ながら、当時秋田の民謡界では津軽三味線を弾ける人は珍しく、直ぐに教えてくれと言う方々が現れて教室活動も始めたが、青森の隣県、秋田も三味線奏者や民謡に対する評価は決して高くはなかった。

民謡王国として不動の地位を築いていた秋田県だが、民謡が好きと職業としての評価は全く別の話なのだ。
それは職業として成立させるに現実は中々厳しいものがあり、その事が評価されない所以であったのだろう。
極め付け、とりわけショックだったのは弘前出身の義理の叔母の言葉。


母親の兄、私にとって叔父は秋田県警の警察官であり、その連れ合いの義理の叔母は弘前城下の寺の娘であった。
叔母にすれば津軽三味線は盲人の角付け芸で負のイメージしかなかったのでしょう。
まして寺の娘の叔母は特別にその意識が強かったのだろう。

叔母は遊びに行った私はに対して、【訓ちゃん、あなた何が悲しくて、ボイドの真似しなきゃならないの】と。
ホイドとは、津軽や秋田では一言で言えば乞食のこと。
叔母にしてみれば身内からその様な者が出るのは耐え難かったに違いない。


流石にこれにはショックでした。
よ~し、今に見ていろ!
私は叔母のこの言葉で絶対にこの世界で立派に生きてやると心に誓ったのです。


つづく

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