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★津軽三味線『藤秋会』家元★加藤訓の公式ブログ 2019年05月15日
当時の津軽は天然痘による失明者が多かったという。
それに厳しい冬を越すのに暖房は欠かせないのは当たり前で、換気の悪い家で囲炉裏にサルケと言われた津軽独特の泥炭をいぶす煙で眼病を患う人が多く、更に医療も進歩してない状況からすると、なるほど失明者が多かったのも納得いく。

先に述べた様に失明者が生きていく術は三味線を弾いて角付けをするか按摩になるしか無かった時代。
しかしながらそのずば抜けた聴覚から醸し出す音色は独特の味があり、多くの人々に感銘を与えた。


特に津軽全域で年に数回行われる神社などの祭礼には欠かすことが出来ない大切な収入源だったという。
農繁期に農民は田圃に出てしまうので角付けをしても家に人がいなく収入にならない、主に角付けは農閑期に行われたそう。

冬は雪で角付けが出来ないので座打ちと言って、主に村の金持ちの家に何日か逗留し、村人に三味線、唄、鳥や動物の鳴き真似などの芸を披露して生活の糧にしてたそうだ。

津軽三味線は盲人がやるものと決まっていたが、その魅力に取り憑かれた青眼者がやる様になったのが明治の中頃からで、次第に青眼者にも広まる事になる。
しかしながら、もともと世間から蔑まれてた盲人の坊様芸は、青眼者がやってもさほどその評価は上がらず、社会的評価はずっと低いままだったのである。

津軽三味線が注目を集めるのは、一座を組んで東北一円や北海道をまわっていた興行が戦争で次第に下火になり、戦後の復興景気で津軽の芸人が東京に出て来た昭和30年代からである。

白川軍八郎、木田林松栄、高橋竹山、福士政勝、小山貢、山田千里、佐々木孝、高橋裕二郎、藤田淳一、澤田勝秋、五錦竜ニ、各氏の活躍により次第にそのファンは確実に増えては行ったが、あいも変わらずその職業の社会的地位は決して高くはなかった。


それはあくまでも盲人坊様の芸だとの先入観から抜け切らない、蔑んだ意識が特に青森や秋田や岩手の人々に伝統的に受け継がれて来たせいだろう。



つづく

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