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★津軽三味線『藤秋会』家元★加藤訓の公式ブログ 2019年05月
昨年夏の甲子園で日本中を熱狂させた、秋田金足農業高校野球部だが、その金農とローソンがタッグを組んで出来上がったのがご覧の2点、塩レモンクロワッサンと金農パンケーキ。










パッケージも金農カラーで中々いかしてるではないか。

出た当時は売り切れ続出で中々買えなかったが、昨日家内が見つけて買ってきた。

どちらのお味も上々で、いただきながら横浜に逆転勝ち、近江との伝説のツーランスクイズを思い出し、その味を更に押し上げてくれる。

秋田があんなに盛り上がった記憶は私が生まれてから初めてのことで、是非是非またあんな夢を見たいものだ。
夢を見れるのは実に素晴らしいこと。


来年の藤秋会40周年記念公演、『藤秋会夢舞台2020』まであと9ヶ月。
今度は皆さんを夢舞台にご案内する番。

大体の構成も決まりそろそろエンジン点火!


頑張るぞ!!

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宮崎に3日滞在、一路秋田の我が家に飛びます。
多分1500キロ程の移動かと思います。
地図で見ると随分遠く感じます。





これを江戸時代には歩いていた訳ですから気が遠くなりますね。
文明に感謝です。

日南、高千穂、霧島、日向、青島、何故か何れもしっくり来る地名、宮崎はとても素敵なところです。


さていざ空港へ。


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ここ何年か審査にお邪魔してますが、記憶では毎回雨、やはり行事は晴れるにこしたことはない。
何よりも着物を着て来る女性には好天は有難い。
第10回南九州地区連合大会は新しい令和の五月晴れの中で新富町文化会館で行われました。





各部門のコンクールには個人、団体合わせて180人ほどがエントリー、見事にグランプリに輝いた方は熊本のベテラン、十八番の牛深ハイヤ節を唄った火の国ふるさと支部の、高見春代さん。




その他、合唱、三味線グランプリ、尺八グランプリ、其々の部門に10人が全国大会に駒を進めました。

皆さんのご活躍を心から記念致します。

そして、泥谷吉利会長他、役員の方々のご尽力に心から敬意を表します。


大変お疲れ様でした、そしてお世話になりました。

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協会の地区連合大会は5月、6月が地区予選のピークで、明日の日曜日も全国各地で大会が開催されるが、私は第10回南九州地区連合大会審査のために今日宮崎入り。





宮崎県は九州でも名高い民謡が数多くある地区で、そのレベルも非常に高い。
いつもは多少心の重い移動も、全国的に好天の今日はスムーズに行きそうだ。


令和の幕開けにふさわしい素晴らしい大会になる事を期待したい。

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先日こんな素敵な言葉を目にした。


諦めないという土に
思いという種を蒔いて
信じるという水をやり
希望という芽が伸びて
夢という花が咲く


【夢先案内人】を目指して生きてきた私に勇気を与えてくれる言葉です。

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津軽三味線全国大会が東京で開催されてから勢いがつき、津軽三味線ブーム到来!
東京に続き2002年、平成14年には大阪で、更にその5年後の2007年、平成19年には名古屋で開催される様になり、出場者も年々若年化、10代で優勝者が誕生する様になった。

人気が人気を呼びその後青森市、神戸、滋賀、仙台、宮崎、岡山でも全国大会が開催されるという盛況ぶり。
今や何処の大会を覗いても出場者の大半は20歳前の若い方々で溢れかえっている。

手前味噌になるが、私の発案でオリンピックプレゼンテーションとして、2014年、2016年には日本武道館でそれぞれ1124人、1911人という大人数での津軽三味線合奏がギネス世界記録に登録された。

昭和40年頃まで地元青森では坊様芸、角付け芸として蔑まされていた津軽三味線は、今や世界に誇れる日本の代表音楽として評価されその地位を確立した事は紛れない事実であり、完全にその市民権を得て更なる進化を遂げている。
テレビに耳を澄ませばバック音楽として津軽三味線の音色が聴こえてこない日は皆無であり、完全に不動の地位を確立している。


40年以上前に弘前出身の義理の叔母に【何が悲しくてホイド(乞食)の真似をしなくてはならないの】と言われた悔しい思いを胸に、その地位の向上をただひたすらに願って来た津軽三味線の現状を見るに、私の役目も一区切りついた様な安堵感があります。


津軽三味線誕生から150年、幾多の困難を生き抜き、津軽三味線の発展に尽力された全ての先人に心から感謝と敬意を表し、更に津軽三味線が日本を代表する音楽として発展することを祈念しこのコーナーを閉じます。



おしまい。

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弘前と金木での津軽三味線全国大会の評価が次第に注目され、若い方々が津軽三味線の魅力に注目する様になり、その大会は遂に聖地青森以外で初めて東京で開催。

1998年平成10年には国内で3番目の第1回津軽三味線コンクール全国大会が、日本民謡協会の主催で東京日比谷公会堂で行われたが、首都東京で津軽三味線コンクールが行われるとの事で、非常に盛り上がったのを覚えている。

この頃になると弘前、金木の大会も含めて段々と若い方々の出場が目につく様になり、確実に津軽三味線が評価されて来ていることを肌で感じた。
記念すべきこの大会で藤秋会は見事に合奏で優勝した。
結果を確実に積み上げて行くのもその地位を上げる手段である。


藤秋会はその前年の3月にニューヨークカーネギーホールで単独公演を行うことが出来た。
何と参加者は160人。

忘れもしない3月3日、朝からみぞれが降る悪天候にもかかわらず2000名を超えるお客様のご来場をいただき、ラスト曲、津軽の響き終了後、総立ちのスタンディングオベーションにあまりの感激でボロ泣きをしたのが忘れられない。

そして何とその模様が日本テレビのズームイン朝で、ニューヨークから中継で放送されて国内に知れ渡ることとなり大きな反響をいただき、その事が評価され秋田市から芸術選奨をいただいた。

翌年、平成10年には和楽器で初となるオーストリア、ウイーンのウイーンフィルの本拠地、新年元日にニューイヤーコンサートの模様が世界中に中継される黄金のホール、あの【楽友協会ホール】での藤秋会単独公演も行い、次第に津軽三味線を世界に発信して行く事にも力を入れ、少しずつではあるが津軽三味線の地位を向上させる夢は着実に前に進んでいる事を実感出来た時代。


平成13年に藤秋会20周年記念公演を秋田県民会館で行ったが、それまでの秋田の民謡会の発表会はせいぜいチケットは2000円ほど。
私はその公演でチケット代を5000円に設定。

オペラや歌舞伎などは1万2万が当たり前なのに、どうして民謡はそんな値段なんだろうと常日頃思っていて、良いものをやれば絶対お客様は高くても納得するはずだし、それをやる事が民謡の評価を上げる事になると思い5000円にしたが、案の定非難ごうごうで石でも飛んで来そうな雰囲気。
しかしながら結局満席にしてこれをやり遂げた。


つづく。

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ここで津軽三味線の魅力を考えてみたい。
一般的に津軽三味線と言えば津軽五大民謡のイントロと唄中を演奏することになるが、代表的な曲が皆さんご存知の津軽じょんから節。

それによされ節、小原節、三下り、あいや節となる。
これで5つ、5曲かと言うとそうではなくて、じょんから節でも、旧節、中節、新旧節、新節と4つもある。
それに、よされ、あいや、にも旧節、或いは古調なるものがある。

小原節は旧節、中節、新節、そして三下りと、ざっとこれだけで、12曲になる勘定、しかもどの曲も長い。
津軽三味線の面白いところは、クラッシックと違い、統一譜面はなく、弾き手によってフレーズがそれぞれ違う。
ここがある意味良いところでもあり厄介なところでもあるのだ。


分かり易く言うと10人いれば10通り、100人いれば100通りの弾き方が存在することになる。
いわゆる津軽三味線は各曲目の定義はあるが、それを崩さなければどんなフレーズでもオーケイで、自分で創作、いわゆる作曲したものを弾いて良いところが面白いところ。


若い愛好者に津軽三味線の面白さを聞くと、自分の世界を作れるところに魅力を感じると言うが、現代人は協調性が求められると面倒くさいと思う事から、自分の殻に閉じこもって自由に作曲演奏出来るところが、特に今の若者には好まれる様だ。

ただし、昨今の津軽三味線は余りにも逸脱し過ぎて、津軽三味線とは言い難く、太棹三味線と言わなければならない様なものも多い。
津軽三味線は津軽の独特な環境下でたくましく生きて来た音楽であり、そのフレーズから津軽を連想出来ないものは津軽三味線と呼ぶべきではない。

瞼を閉じればそこには津軽の美しくも厳しい四季織々の情景が浮かぶものでなければ、頭に津軽と言う冠を付けてはならない。

時代の進化に伴い音楽が変化していく事はある意味当然だろうが、津軽を頭に付ける演奏と、それ以外を一色単にして津軽三味線と呼ぶのはやめてほしいものだ。
つづく

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昨日令和最初の免許授与式が熱田区の賀城園で行われました。










秋田、宮崎、兵庫、三重、愛媛と今年は遠方からの授与者でしたが、新緑まばゆい中庭をのぞむ賀城園ならではの和室は厳粛な式にはぴったりで、20年も利用させていただいる所ながら、改めてここの素晴らしさを感じます。


厳粛な授与式後の宴席は打って変わって和やかな雰囲気で出席者も満足の様子。

二次会はお馴染み上海美食で更にその絆を深めた一日になりました。


授与者の皆さん、誠におめでとうございます㊗️
更なる精進を期待致します。

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義理の叔母の言葉に奮起した私が目指したのは、先ず生活がしっかり出来る様にしようと思った。それがきちんと出来ないと津軽三味線の評価は上がらない。

幸運な事に民謡日本一の歌手三人と三味線、尺八の5人で五星会という民舞団が秋田にあり、歌手は民謡日本一、長谷川久子、佐々木常雄、千葉美子、伴奏人にその後名人位になった、三味線の佐々木實、尺八の藤丸東風とそうそうたるメンバーの専属として給料制で来てくれと声がかかった。

しかも舞台がある時だけ行けば良く、その他は自由だと言う有難い仕事をいただいた。
当時五星会の看板である長谷川久子先生は東北の女王と言われた方で、この方の専属として伴奏を付けられるのはある意味でステータスであった。

津軽三味線全国大会が弘前で開催されたのが1982年、昭和57年で弘前を拠点に活動していた山田千里先生が始めたが、当初出場者は大半が山田一門で身内のコンクールの様だった。
藤秋会が初めて合奏で参戦したのが第6回大会の時で昭和62年、この時運良く優勝したのには正直自分でもビックリした。

時代が平成に変わった年に新たに弘前からほど近い金木町で、第1回津軽三味線全日本競技会が開催されこの時も合奏で優勝。
少しずつではあるが津軽三味線が細やかながら注目される様になった気がする。

しかし盲人の角付け芸として蔑まされた津軽三味線に対する本当の評価は、それで食べて行くことを証明することで認めてもらえる事だと思っていたので、まずは自身の生活を安定させることが先決。いくら立派な音楽でも食べれないものに対する評価は低い。

この頃普通の家庭でピアノやバイオリンを親が子にやらせるのはステータスであり、子供に津軽三味線を奨励する親はまだまだ稀な時代で、津軽三味線に対する評価の低さがそうさせていたのである。
それもそのはず、ピアノやバイオリンと言えばヨーロッパの裕福な貴族達が、華やか宮殿で繰り広げられる舞踏会に登場する楽器で、貧困を想像させる津軽三味線とは雲泥の差なのである。

私のライフワークは津軽三味線の地位を上げてやがてピアノやバイオリンと肩を並べられようにすること、この目標は長年変わることはない

いつ来るかわからない仕事を待っているのでは生活が不安定であり、舞台活動から教室をしっかりと確率して行くことに軸足を動かしたのもこの頃である。

県外教室が次第に増えていく中で【絶対弾ける津軽三味線】と題したビデオを出した事でその反響は想像以上で、次第にその指導法が広まりお弟子さんも増えて行き生活も安定して来た。
それでもこの頃の秋田ははまだまだ三味線で食べている事への理解度は低く、【加藤さん、お仕事は?】と聞かれ三味線で生活してますと言うと、必ずと言って良いほど【えっ!三味線ですか?】と聞き返された。


その理由はそんなものでは食べられないだろうとの先入観が根底にあったからに他ならない。


つづく

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