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★津軽三味線『藤秋会』家元★加藤訓の公式ブログ ★藤秋会10連 覇への道
10連覇を達成出来た要因は色々あると思うが、最も大きな事は私が秋田に生まれ、そこで育ち、そこに住んできた事だと思う。

秋田の民謡界ほど、勝ち負けに厳しい所は全国を歩いて見ても、多分存在しない。
秋田の民謡界では1位で無ければ誰も認めない。

2位もビリも同じ評価でしか無いのだ。
認められる為には、ひたすら努力を重ね1位に成るしか方法は無いので有る。
この現実が私と藤秋会を大きく成長させてくれた。
その意味で秋田の民謡界に心から感謝をしたい。

やっぱり人間ハングリーに成らないと良い結果は生まれないし、他に勝つ事も出来ない。この原点を決して忘れる事なく、雑草軍団藤秋会はまだまだ夢を追い続ける。



力つづく限り!



おしまい

テーマ:津軽三味線
ジャンル:音楽
刻々と迫り来る時間に気持ちばかりが早るが、私が冷静さを欠けば更に選手が動揺して、ミスに繋がり良い演奏が望めない。
最終的に弟子を信じて、いざ出陣。

10連覇がかかっている事は大会関係者も知っていて、控えで並んでいる時も色々と激励の言葉をかけてくれる。
既にここまで総合優勝を14回している事も有り、周りからの認知度も高く注目の的で、客席の雰囲気からもその期待度が伺い知れる。

大きなプレッシャーのかかった本番だったが心配をよそに、殆どミスも無く過去最高の出来だった。
終わった瞬間、ウオーと言う客席の歓声と反応の大きさが勝利を確信させ、責任を果たせた安堵感で一気に肩の力が抜けるのを感じた。


結果は806点、2位とは12点の差、この部門で12点の差は大きい。
ちなみに2位のグループは過去に私の弟子だった人達で構成されていた。
多少なりとも私の指導が生きているとすれば嬉しい事で有る。


こうして藤秋会は新たな財産を手にした。
日本郷土民謡協会に入会して22年目の秋の事で有る。



つづく

さて10連覇がかかった平成18年10月、いよいよその日が来た。
9連覇で終わるのと、10連覇するのとでは全く意味合いが違うし重みが違う。

もしも、今年負ければまた1から出直して10連覇する事など、現実的には不可能に近い。何が何でも勝ちたかった。
切りの良い事に秋田地区連合会から独立をして丁度10年、節目の年で有る



今年は絶対勝ちに行くために最強の布陣、全国から40名を選抜。
内訳は秋田4人、宮城1人、東京1人、富山4人、愛知19人、岐阜2人、三重5人、兵庫3人、愛媛1人。


朝9時半、武道館集合。
出演までは3時間程しか時間が無い。
特に女性は同じ髪型を作る為に時間がかかるし、選手の中には唄部門に出演する者が2名いて、伴奏者も含めてその時間抜けてしまうので全員揃っての音合わせが中々出来ない。

11時頃やっと全員揃って音合わせと成ったが、毎年の事ながらこのメンバーでの音合わせは今日が初めてで、和音や替え手のバランスが難しく、シュミレーションしていた感じと大分違う。

急遽、パートごとの人数割を変更したが、中々思い描いている様に出来ない。
時間が残酷に過ぎていき、気持ちばかりが焦る。
果たして上手くいくのか?


つづく

テーマ:津軽三味線
ジャンル:音楽
平成9年、藤秋会は新たな転機を迎える事に成る。
それまで所属していた秋田地区連合会から独立、全国35地区連合会の中で唯一、一単会、藤秋会だけで『中日本連合会』を形成する事を許されたのだ。

ただし、条件は連合会として認められる最低登録人数200名をクリアする事。
決して低いハードルでは無かったが、これを機に藤秋会は、勝利を積み重ね、10連覇まで突き進む事に成る。

それまで勝ち負けが続いていたので、10連覇する等とは考える余裕もなく、もしかして行けるかな?と思う様に成ったのは平成16年8連覇をした時からで有る。

決して最初からめざしたものでは無く、思っても簡単に出来る程あまい事では無い。
ただただ、一回一回、与えられた条件の中で一生懸命にやる、そして、今年は去年よりも更に良くとの気持ちを忘れない。
その気持ちがいつの間にか連勝に繋がった。

さて10連覇への挑戦権である9連覇目は流石にプレッシャーがかかった。
これを逃せば、10連覇は夢の夢、これを勝って何とか、皆で良い夢を見たい。
そんな一途な思いが皆の気持ちを一つにさせ、念願の10連覇への招待状を戴いた。
今までに無く嬉しい瞬間だった。



つづく

テーマ:津軽三味線
ジャンル:音楽
我が藤秋会も名取制度をとっているが、並びを決める時、この事が大きなネックに成った。

名取の序列と技術は必ずしもイコールではなく、あくまでも勝つ事にこだわった結果、自分の並び順に不満を持ち、理解を得られず会を去って行った人も一人や二人ではない。
この事で非常に悩み大きなストレスに成った。


やればやるほど合奏は難しい。
ただ人数を集めて演奏すれば良いと言うものではなく、良い演奏をするには全体のバランスが重要。


自分の左の音と後ろの人の音が自分に聞こえて来る。
逆に自分がミスをすれば、右の人と前の人に悪影響を及ぼすのだ。良い演奏をするには、良い音がそれぞれの弾き手に行く様に配置をすれば良いのだが、これが最も難しい。
私は連日、まるで難解なパズルをするが如く何十通りも並び替えをして夢に出て来る事もしばしば。


今思えば、その人の面子を考え、私情が入った布陣にした時に敗れているし、事前に何度もシュミレーションを重ねても、当日実際に演奏すると、予想と違っていて、迷った揚句直前に並びを変更、それが裏目に出て負けた事もあった。

サッカーの岡田ジャパンではないが、合奏もチームワークが重要で、選手一人一人が、藤秋会と言うロボットのパーツで有り、無駄な物など一つも無い。
どのパーツ一つ欠けてもそのロボットが動かなく成るんだと思うことが大切で、どの場所に座ろうが、一人一人が大切な役目を担っている事を忘れては成らないのだ。



つづく

巨像、貢栄連合会を倒しての優勝は、我々の大きな自信となり、昭和天皇が崩御され元号が平成に変わった年、幸いにして我々は、またもや、貢栄連合会を退け二連覇する事が出来た。


二連覇した事で、地区連合会支部長会議で、合奏は秋田民謡に限らなくても良いと言う事を了承して戴いた。
やっぱり実績がものを言う。


しかし、ここからが中々思う様に成らなかった。
三連覇をかけた平成二年、敗退、続く四年、六年、八年と一年おきに敗れいずれも二位。

『負けるが勝ち』『失敗は成功のもと』と昔からの諺に有る様に、敗れれば何故敗れたかを分析し、それを生かす事が出来、自分なりに徹底的に敗因を分析した。


我が藤秋会は秋田を本部に県外に教室が分布していて、秋田県予選に出るにも登録メンバーから選抜し秋田に集結、予選に出ていた。

当然、経費上の問題で事前に集まり練習する事が出来なく、本番当日のみの音合わせに成り、思う様に中々成らない。
この事が何よりも辛いところだった。

武道館でも同じで有り、今まで選手全員が事前に何処かに集まって練習した事は一度も無い。


敗れた原因は色々考えられるが、ぶっつけ本番で毎回勝たせてくれるほど、武道館は甘い所では無かったので有る。



つづく

二年続けて予選敗退と言う屈辱は、我々を大きく成長させた。
63年『仙北荷方、本荘追分、秋田荷方』の、津軽三味線に対抗出来る、秋田三味線の代表曲を組み合わせ、三年振りに予選を突破。

指導者として三年連続で敗れる事は、その力量を疑われても仕方の無いこと。是が非でも負ける訳にはいかなかたった。

この頃、昭和天皇の病状が思わしく無く、連日の様にそのご容態が報道され、場所柄、今年の武道館は中止になる可能性も有るとの話も出て心配されたが、幸いに予定通り開催される事に成り、一同ほっと胸を撫で下ろす。

いよいよ決戦の日、東京でも寒さが日増しに厳しさを増し、その日は朝からあいにくの冷たい雨、しかも陛下のご容態の事も有り、皇居敷地内に有る武道館では、外部にあからさまに音が聞こえない様にとの御触れも有り、満足に音合わせが出来ない厳しい状況。

それでも幸運な事に我々の出番は、一番最後。
この種のコンクールでの先行逃げ切りは不利で、後に出る程条件が良くなる。
相変わらず貢栄連合会の大合奏は見る者を圧倒し、迫力溢れる演奏は王者ならではの貫禄と自信に満ち溢れていて素晴らしく、当然ながら最後の我々を残して最高点。

横綱に胸を借りるつもりで半ば開き直りで挑んだ演奏は、大きなミスも無く予想以上に上手く出来た気がした。
初出場の三年前、赤のトレーナーで出場して注意された反省を生かし、良し、それではと和服の最高礼装である、黒紋付きに袴、女性には留め袖を着せた。
これ以降、それまでばらばらに色とりどりの会の着物を着ていたグループも、次第に藤秋会カラーに成り、今では殆どがこのスタイルに成った。


固唾を飲んで見守る客席が一斉に電工掲示板に注目、一瞬の静寂の後、やがて会場一杯に響き渡る歓声が我々の勝利を告げ、会員が歓喜で沸き上がり抱き合う光景がつい昨日の事の様で有る。



つづく

ほろ苦いデビューと成った武道館だったが、翌61年はまさしく試練の年に成った。
予選を3ヶ月後に控えた地区連合会、支部長会議での事。

ある支部長から合奏は、秋田から出る以上、秋田の曲にするべきだとの意見が出た。
当然ながら、予選突破に向け津軽じょんから節で、懸命に練習していた時期で有り、しかも予選までは3ヶ月しかなく、今から曲目を変更するのはとても無理と反論したが、裁決で虚しくも私の主張は退けられてしまった。
正直、その時は余りにも三味線を理解してない無責任な発言に、強い憤りを覚えたと同時に、まだまだ実績が無く皆を説得出来なかった自分の無力さに自暴自棄に陥った。

しかし、決まった以上どうにも成らない。
秋田の曲で津軽三味線に対抗出来るのは、荷方節以外には無いと考え、とても間に合わないとは解っていながらやらざるを得なかった。
能代市で行われた予選は案の定、ボロボロで敗退、その年の武道館は予選2位のチームが出られるミニ合奏コンクールに出場したが2位。

続く62年、田沢湖町で行われた秋田地区連合会予選も曲の仕上がりが悪く残念ながら2位。
その頃のメンバーは、まだまだ未熟で荷方節を弾き熟せる人が少な過ぎた。
結局その年はミニ合奏にエントリー出来たが、中途半端な状態で武道館に出ても良い結果には繋がらないと出場を断念、二年続けての予選敗退は、大きなプレッシャーとストレスに成ったのである。



つづく

初めて挑戦した武道館でのコンクールは、予想に反しての三位。
本来、藤秋会は初出場で有り、十数チーム中の三位はその結果を喜ぶべきなのに、喜びどころか、ミスが多過ぎる演奏に只、悔いだけが残った。


それに当時を振り返ると恥ずかしく成るが、全く何も知らない状態で臨んだので、コンクールの衣装の事まで気がまわらず、本来ならば着物で出るのが当たり前だったが、我々は浅はかにも揃いの赤いトレーナーで出て、その事を出番前に役員に指摘されたのも非常にショックだった。

今思えばごく当たり前の事で、知らなかったでは済まされない話。
しかし、この反省が、やがてその後の武道館、器楽合奏部門の衣装をがらりと変える事に成る。


その日は横須賀や群馬の教室からも応援に来て戴き夜は上野に有る『池の端文化センター』に宿を取り、反省会。
本来ねぎらうべき立場である私の挨拶も、悔やむ言葉が先にたち、話し終わってから、結果はどうあれ、精一杯やった事をもう少し評価してあげれば良かったなと後悔、まだまだ人間が未熟だった。

それでも、酒が進むにつれ、来年こそはもっともっと頑張ろうと誓い合って結局、朝日が昇る頃に寝た事を今でもはっきりと覚えている。



つづく

予選を通過、まだ見た事のない武道館への出場決定は、それまでの稽古とは比較に成らないほど会員の士気が上がり、日増しに向上して行くのが周りからもはっきりと見てとれたと言う。

当時、交通局に勤めていた会員がいた事もあって、憧れの武道館へは、最新デラックスバスを仕立て総勢23名で出発。
心がはやり、酒を飲んで酔いも手伝ったせいか、興奮して皆、中々眠れない。

うとうとする間も無く朝方憧れの武道館に到着。
朝もやの中から、確かにテレビで見た事の有る建物が目の前に現れ、興奮と緊張が一気に押し寄せ、心臓の鼓動が高鳴るのを抑えきれなかった。

当時、津軽三味線の合奏が大流行りで、知名度も実力もNo.1だったのが、現、小山貢翁さん率いる『貢栄連合会支部』
100人を超えるダイナミックで迫力有る演奏は、観る者を圧倒し興奮を極限へと押し上げた。

順番待ちをして、その演奏を聴いた我々は完全に萎縮。
何も解らないで来た田舎者集団は、まるで巨大象を地べたを這いながら見上げる蟻の様な心境、完全に雰囲気に飲まれ、何が何だか解らないうちに演奏が終了。
自分達の実力の三分の一も出せなかった事に只々、無力さを感じると同時に、武道館の厳しさを目の当たりにした。

結果は予想通り、貢栄連合会の圧勝。
2位に澤田勝秋さん率いる澤田会支部。
何と驚いた事に我が藤秋会は3位に入った。


つづく

平成18年、藤秋会は日本郷土民謡協会全国大会、器楽合奏の部で遂に10連覇を達成。

協会に入会以来22年にして成し遂げた。
この間、当然の事ながら決して順風満帆であろう筈が無く、数々の反省と多くの犠牲の上に成し得た事、思えば様々な葛藤が有った。

そもそも郷民(日本郷土民謡協会)に入会する事に成ったのは、藤秋会を結成して3年が過ぎ、何とか形が出来て来て、それを確認する場所が欲しかった事からである。
たまたま、調べたら日本郷土民謡協会の大会要項に器楽合奏部門が有ったので、自分の指導した事がどこまで通ずるか確認の意味もあったのだ。

60年の2月に郷民、秋田地区連合会、秋田藤秋会として入会を許され、早速その年の6月に全国花火師競技会で有名な大曲市で、地区連合大会があり、それまで秋田では初めてその部門が開催される、器楽合奏コンクール予選に出場。

初めての事で有り僅か3チームのエントリーだったが、民謡王国の名を全国に知らしめていた秋田の大会は、唄部門の個人戦が中心で、新しい部門の団体で競う器楽合奏には多くの聴衆が興味を示し、それまでに無い盛り上がりに成った。

からくも1点差で予選通過、秋の日本武道館に出場出来る事を天にも昇る気持ちで皆で喜びあった。
それもそのはず、その当時、私が知りうる日本武道館は、テレビの歌番組などで目にするとても華やかな場所であり、田舎者の我々には夢見る憧れの場所であった。


今から数えて25年も前の事で有る。



つづく