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★津軽三味線『藤秋会』家元★加藤訓の公式ブログ ★加藤訓「30年の軌跡」
ビデオとカラオケを作った事により知名度が飛躍的にアップ。

年号が変わった平成元年には姫路教室が誕生、平成4年には山口県宇部市に、7年には鹿児島県姶良町に、10年に岡山と東京八王子、鹿児島市にも教室が出来ていったので有る。

そして現在お弟子さんが頑張ってくれている事も有り、秋田を本部に北から宮城、群馬、神奈川、東京、富山、静岡、愛知、三重、岐阜、滋賀、大阪、兵庫、岡山、山口、愛媛、鹿児島と殆ど列島を縦断してカバー出来る様に成った。

全くゼロからのスタートでは有ったが、多くの良き門下生に、そして後援者に恵まれて此処まで来れた事を、心から感謝する

30年の道のりは長く、山有り谷有りの連続で決して順風満帆では無かったが、数々の失敗と経験がこれからの藤秋会に必ず生かされるはずで有る。

30年前とは社会構造も、三味線に対す考え方、そのニーズも変わって来たが、築き上げた物を大切に明日を信じて頑張りたい。
津軽三味線が日本を代表する楽器と言われるまで。



おわり

カラオケ制作のスタッフは私と尺八が佐藤修水さん、太鼓と掛け声が、鷲谷りつ子さん、熊谷浩子さん、それに音響の加藤平さんと、なべちゃん。

主に東北、北海道の代表的な曲を選んで録る事にしたが、曲数が多く日数がかかる事から、スタジオだと経費がかさむ為、会場に選ばれた所が秋田市の千秋公園の中に有る弥高神社の社務所。

しかし、此処を選んだのは考えるとそもそも失敗だった。
普通、神社は木々が生い茂り荘厳で一見静かに思えるが、自然の中に有る為、録音には天敵の野鳥が多い。

あれ??ストップ、ストップ、今の音は何だ??猫?違うなあ、巻き戻して聞いて見ると何かの泣き声が入っている。
あっ!烏だ。


今思えば良い思い出、笑い話だが、正直この皆さんには参った。
今から録音に入りますのでどうか静かにして下さいとも言えず、只演奏が終わるまで鳴かないようにひたすら祈るだけで有る。

色々鳴いて頂いたが野鳥の中でも特に烏がくせ者で、もうすぐ終わる頃に成ると、カアーカアー、一羽が鳴くと、つられて友達も鳴くからたまったもんじゃない。
まるで、こちらの様子を伺って楽しんでいる様である。
結局又最初からやり直し。

それと当時はまだ珍しかったが、尺八の佐藤さんが、花粉症だと言って鼻水を垂れ流し、そんな病気が有るのかと不思議だったが、テッシュを一箱置いて頑張っている。
演奏途中で鼻水が流れ落ち呼吸困難になり鼻水をズルットすする。しかしこのすする音をマイクが拾ってしまってNGの連続で本人も大恐縮。


野鳥やら、花粉症やらで大変苦労して録ったが、これも思いのほか好評で、それまでイベント等で伴奏を連れて行っていた民謡歌手の皆さんが、これ一本で唄える様に成ったと随分感謝され、知らない方までが、加藤さんのカラオケにはいつもお世話に成っていますなどと言われて、苦労しただけの効果は有った。

つづく

テーマ:津軽三味線
ジャンル:音楽
苦心の末完成した絶対弾ける津軽三味線ビデオは、予想以上の大反響で、全国から沢山の電話や手紙を頂いた。それらの情報から、自分では決して特別な指導をしている意識は無かったが、私の指導が当時では珍しかった事を知る。

当初はビデオなんか出したら全部解ってしまって、習いに来る人なんかいなく成ると思っていたが、考えて見れば、ビデオは一方的で貴方、そこは違うよとは言ってくれない、

結局ビデオで勉強した事が果たして出来ているのか不安に成り、不安に成ると確認したくなる。
結果、近くに教室が無いかとか、来て貰えないかとの問い合わせが相次いだ。

そしてこの時期に並行して作ったのが、民謡のカラオケで有る。
カラオケは三味線を勉強するのにも良いし、唄を稽古するには、尺八、太鼓、お囃子も入っており、フルオーケストラなので大変重宝されたが、曲数が多いし、色々な声の高さに対応出来る様に同じ曲をキーを変えて録るので、一曲録るのに7~8回も同じ作業をしなければならない。

今はカラオケに行っても簡単にキーの上げ下げが出来るが、当時はキーを変えようとすればテンポまで変わってしまい結局何度も録らざるをえなかった。
なんとこれがビデオ以上に大変だったのだ。


つづく

人力譜面巻き取り機の操縦士は友人の佐藤清春さん、彼は秋田漫才をやる人で、パンチパーマで色黒なので一見、アフリカの方と見間違う程で有る。

今考えれば笑い話だが、この人は曲を良く理解していなかったので今何処を演奏しているか解らない。
これには参った。
実際の演奏よりも譜面が早く進んだり遅くなったりするので、演奏の画面と譜面が合わないのだ。
しかも人力なので、速度が一定しない。
譜面が速くなったからと言って演奏を速くする訳には行かずほとほと苦戦した。

又、譜面を指してくれた人は私の弟子だったが、まだ本人がそこまで弾けず何処を弾いてるのか解らず、これも実際の演奏ヶ所とは違う所を指している。
全く漫画で有る。

今の様にデジタルでは無い時代なので、一度合わないと又最初から録り直しの連続で、しまいにはは疲れて来て、行き過ぎたのを止めないで戻したりもしているので、今見ると笑える。


まさに産みの苦しみで出来上がったのが、名付けて『絶対弾ける津軽三味線』ビデオなので有る。
そしてこのビデオがそれまでの心配とは裏腹に、その後の教室拡大の大きな力に成った。

昭和63年の事で有る。


つづく

テーマ:津軽三味線
ジャンル:音楽
なべちゃんとの打ち合わせ場所はいつもの居酒屋。
ある日、二人で呑みながら何気なくテレビを見ていたら、映っていたのがイカ釣り船。
あっこれだ!!
この巻き方が良い。
さすがにイカ釣り船の巻き取り機は大き過ぎるが、似た物にトイレットペーパーのホルダーが有る。

結局譜面を綺麗に流れる様にするのにトイレットペーパーのホルダーを使う事に成った。譜面をトイレットペーパー状に長く作り、テーブルの両端にトイレットペーパーのホルダーを改良し片方から巻き取る様にし、それをカメラで真上から映す事に成ったが、成るほどアイデアは良いが、巻き取りは人力、手動に成るので果たして上手く行くかが最大の問題。

撮影は秋田放送のスタジオを借り、二台のテレビ局撮影用のカメラを使い、一台は私の弾いている絵を、もう一台のカメラで譜面を撮る事にし、さあ撮影開始。

スタッフはカメラマン二名、譜面の巻き取り係一名、どの部分を演奏しているか、見てる人が解る様にと譜面を指す人、監督がなべちゃん、と主演の私で総勢六名で始められた。上手く行けばアカデミー賞主演男優賞か?

しかしこれが想像以上に大変で、悪戦苦闘、トラブルの連続で中々上手く行かない。
案の定、不安的中、心配していた事が現実と成った。さて?

つづく

テーマ:津軽三味線
ジャンル:音楽
なべちゃんの言うテレビに弾き方が映って、しかも譜面が下に流れる様にするのは、カラオケで言えば歌詞が順番に出て来る様な物で、確かに誰もやってない画期的な事では有ったが、流石にこれをやってしまったら習いに来る人がいなく成ってしまうのではと思って随分悩んだ。

津軽三味線の譜面を使っての指導もまだ珍しい時期に、いきなり手を映した他に譜面まではいくら何でも勇気のいることだった。
しかも教室も順調に伸びて行ってる時期、果たしてそこまでやる必要が有るのだろうか?折角出来た教室が無くなる様で、不安で一杯だったが、なべちゃんの頼みでもあるので一大決心、思い切って出す事にした。

出すと決まった以上、評価される物を作らなければ成らないと思ったが、この作業が大変で、譜面は有ったが不特定多数が見るとなると、正確なきちんとした物でなければならず、この見直し作業に結構時間がかかった。

今では考えられないが、1番の問題は譜面をどの様にして流れる様にするか??
お金をかけられればテレビ局にお願いすれば完全な物が出来る事はわかっていたが、高額に成りとてもそんな余裕は無かったので有る。

そこで思い付いたのがトイレットペーパー、えっ?トイレットペーパー?


つづく

テーマ:津軽三味線
ジャンル:音楽
今では大して珍しく無いだろうが、当時私の様な指導をする人が少なく、名古屋貴美教室には他の会を辞めて来る人が多かったし、その中には弟子を持っている人も何人かいて、口を揃えて今までこんな教え方をされた事は無いと言う。
ある人は今までの会の十倍早く覚えられる等と言った人もいた。

こちらは決して特別な事をやっている意識は無かったが、当時はそれが評判に成った。
教え方は今も当時と変わらないが、当時津軽三味線を譜面で教えている人が少ない中、難しいと言われた五大民謡も譜面を書いていたし、中々出来ないと言われていた、前撥、後撥の使い方もきちんと明記していた事が評価される由縁だったと思う。

62年にはまだ高校二年生だった総師範、訓栄がこの貴美教室に入門し、63年の春には高山の訓成が内弟子として秋田の我が家に来た。更にこの年にトヨタ教室、と岐阜にも教室を開設、大変目まぐるしくも良い時期だった。

丁度その頃、現在秋田市で民謡の教材を録音、出版している友人で『秋田、民謡企画』の渡辺敬さんから、何か目玉に成る物が欲しいので津軽三味線のビデオを出してくれないかとの話が有った。

その頃の津軽三味線教室は何処も保守的で、譜面も無い、テープさえ中々録ってくれない時代、 私は出し惜しみをしない主義だったので、譜面も渡し、テープも録ってあげてたが、流石にビデオと成ると考えてしまった。

しかも、なべちゃん(渡辺さん)は画面上に譜面も流れる様にしたいと言う。
ウーン、いくら何でもそこまではと大分考えてしまった。


つづく

テーマ:津軽三味線
ジャンル:音楽
当時、秋田で一番高い建物が農協会館で結婚式は此処で行われる予定だった。
建物その物には大きな被害は無かったが、食器がかなり割れてしまい、同じ物が揃わないと言う。
しかしあと一週間に迫っていたので延期する訳にもいかず予定通り行う事にしたが、会場側の努力で何とか無事に終了、別の意味で思い出深い日に成った。

順調に進むかに見えた、愛知教室は一年半を過ぎた頃から雲行きが怪しく成って来た。
最初に声をかけてくれた人は中々感の良い人で、その頃に成るとあとは自分でやれると思ったのか、段々態度がおかしく成って行く。多分私が必要で無くなったからだろうが、その事に堪えられなくなり、この地からの撤退も考えたが、その中の一人が、是非とも継続したいので名古屋市西区の家を稽古場として使ってくれと言う。
他の二人も付いて来ると言うのでそちらに教室を移す事にしたのである。
西区に移ってから四人増えて七人に成ったがそこから中々増えず、そんな状態が二年程続いた。

有る時、名古屋で民謡酒場を経営している小林さん(貴美のマスター)が一度会いたいと言ってると言うので店にお邪魔した。
その方が大変私を気に入ってくれ、是非店で教室をやって欲しいと言う。
話はとんとん拍子に進み、此処から新たに展開して行く事に成る。昭和61年3月の事で有る。


つづく

昭和57年には栃木の葛生町にも教室が出来その後、群馬絡みで神奈川県の横須賀にも進出。
そして秋田に帰って三年目の昭和58年、秋田民舞団五星会の専属伴奏者として秋田の民謡界にも認識される様に成って来た頃のこと。

秋田に藤尾企画と言うプロの民謡歌手のテープを自主制作して販売している会社が有った。
現在東京に事務所を移して同業を営んでいて武道館の大会等でテープを販売している『藤尾ロクボン』で有る。此処の社長の藤尾隆造さんは、ブラジルに移民した同朋を慰める為に何度も民謡人を連れてブラジルに渡った。

ブラジルを慰問した報告会を兼ねた民謡ショーを、秋田市の文化会館で行った際に五星会の伴奏者として私も出演、たまたま愛知県一宮市から来ていた方が佳北会会主で現在、一宮市議会議員の『中村佳北』さん、その伴奏で来ていた方と楽屋が一緒で、話が弾み是非名古屋に教えに来て欲しいと言う。

幸い前年に富山まで行ってたお陰で名古屋まで足を延ばす事に成った。
最初の稽古が58年の3月、正式には名古屋では無く、名古屋から30分程電車に乗った、葉栗郡木曽川町で有った。
県外三番目の教室は僅か4人でのスタートで
、往復の汽車賃にも満たなかったが、此処から何とか頑張って大名古屋市に進出できれば、必ず目が出る日が来る事を信じて頑張った。

そしてこの年、私は結婚した。
式は6月4日、しかしあろう事か一週間前の5月26日に、あの日本海中部沖地震が発生、死者が100名を超す、未曾有の大災害に見舞われたので有る。



つづく

最初の県外教室(群馬)から半年後の事、秋田市大町に有る三味線屋、鳴海屋の母さんが話が有るから来てくれと言う。
早速訪ねたら、富山県に教えに行ってくれないかと言うではないか。

私が群馬まで行っている事は母さんに話してあったので、ついでに足を延ばして欲しいと言うのだ。
何と有り難い話だろう、捨てる神有れば拾う神有りと言うが、まさしくこの時期、私の状況はそんな感じだ。
勿論二つ返事で承諾し、早い方が良いと言うので早速母さんと富山県の入善町に向かった。

初めて行く富山、新潟から海岸線を走る列車の車窓からは、何処までも果てしなく続く大海原が鮮やかに写り、前途がこの様に広がる事を祈らずにはいられなかった。
その方はお弟子さんを持っている方で、ご主人は警察官、このご夫婦には大変良くして頂いた。
お弟子さんを集めて盛大に私の歓迎会を開いてくれた事を、今でもはっきりと記憶している。

残念ながらご主人は、58年の豪雪で殉職され、その後教室は奥さんの在所で有る富山市に移る事に成る。
二つ目の県外教室はこうして誕生し、秋田では九月に一周年記念の発表会を行った年でも有った。



つづく

テーマ:津軽三味線
ジャンル:音楽
秋田は民謡王国と言われ、不動の地位を現在もゆるぎ無いものにしている。

理由は良い唄が沢山有る事、日本一のタイトル保持者が全国で群を抜いて多い事、この事に付いては以前のブログでも紹介した通りだが、秋田民謡界では二位も最下位も同じ評価で、一位のみが認められる厳しい現実が有るからだ。

しかしながら、この狭い地域でそれを生業にして行くには競争が激しく並大抵の事ではないし、限られたパイを皆必死に奪い合っている様にさえ見えた。

故郷とは言え、これは大変な所に来てしまったなあ。
そんな所に落下傘部隊の如く降り立った私は、最初こそ珍しがられたが、生意気盛りのせいも有ってか、段々と叩かれる様に成った。

そんなおり、群馬県の沼田市に公演に行った際、終演後の打ち上げで前に座った、地元の民謡グループで三味線を弾いた人が、是非に習いたいと言う。
帰って直ぐに電話があり、何とか群馬まで教えに来て欲しいと言うので、行く事にした。

この教室が県外進出の第一歩に成った。

七五三退社から一年後の事で有る。

つづく

テーマ:津軽三味線
ジャンル:音楽
秋田に帰って来て半年が過ぎ、昭和56年の1月から秋田民舞団五星会の専属伴奏者に成った。
当時、佐々木常雄、長谷川久子、両先生は脂の乗り切った40代半ば、その芸も熟練の域に達し素晴らしい舞台を繰り広げていた。

特に長谷川先生の唄は合わせるのに呼吸が難しく慣れるまで暫くかかった。
一回一回、決して手を抜く事は無く真剣勝負、ゆえに上手く伴奏出来た時の満足感は何事にも代え難い感動が有った。

専属に成って間もなくの事、冬場は夏場程は仕事も少ないので、箱根の小涌園に一ヶ月間民謡ショーで入った。ショーは基本的に夜なので、昼間は時間があり、練習するには持ってこいの環境で、この時期に、色々な曲を勉強出来た。
今津軽のお笑い界の第一人者として活躍している『黒石八郎』さんとも此処で冬場に何年かご一緒した。

やがてこの年、それまで正式な名称を持たずに教えていた有志が、藤秋会として正式に発会し、県外に初めて進出したのもこの年で有る。


つづく

テーマ:津軽三味線
ジャンル:音楽
佐々木先生のお宅に伺うと、今まで専属で三味線を弾いていた方が辞めたので、是非、五星会の専属伴奏として来て欲しいと言う。

五星会は県外の仕事も多くツアーバスを持っていたが、たまたま私が大型免許を持っていたので、運転も手伝って貰えれば有り難いと言う。
専属なので給料制だが、仕事の無い時は教室活動をしようが自由にして良いと言う。

全国的にその世界では名の通った先生方で有ったので大変光栄な事、特に長谷川久子先生の専属伴奏に成れるのは当時花形、伴奏したくても簡単に伴奏出来る方では無く最も名誉な事で有った。

数日間考えたあげく、船岡のマスターに事情を話し了解をとり、お世話に成る旨、佐々木先生に連絡、契約は新年1月からと成った。
こうして私の三年の五星会専属時代が始まる事に成る。
つづく

秋田の三味線は津軽三味線の様に叩けば良いと言うものでは無く、その曲調からしてもデリケートなものが多く弾き方を変えるのに結構苦労した。

秋田にいた17歳から三味線を始めたが、本格的なものでは無く、ほんのお遊び程度の三味線だったので、決して正しい弾き方では無かった。

一番難曲とされる荷方節は秋田三味線の名人と言われた故、『浅野梅若』師匠に三度通って教えて頂いた。
この頃は三味線が面白くて寝ても覚めても三味線を離さないで弾いた時代、吸収するのも速く、自分でも伸びて行くのがわかった。

そんなおり、ちょくちょく、仕事をくれた方が、秋田民舞団、五星会の民謡日本一、佐々木常雄先生、奥様が秋田民謡の女王と言われてその名が全国に轟いていた民謡日本一、故『長谷川久子』先生。特に長谷川先生は芸の虫、鬼と言われるくらい厳しい方で、その後この先生から、芸の何たるや、厳しさを目の当たりにし教わる事に成る。


ふなおかに入店して二ヶ月が過ぎた頃、津軽三味線がまだ珍しかったせいか習いたいと言う人が現れた。
その後この人を中心にこの年に何と、7~8人の方々が習いに来た。
藤秋会の前進で有る。
そしてその年の11月だったと思うが、佐々木常雄先生から、話が有るので自宅へ来て欲しいと店に電話が有った。

さて?話って何だろう?

つづく

東京浅草の民謡会館七五三を退社して秋田に帰ったのが昭和55年の5月26日。
未練を残しての帰郷なのと、秋田の民謡界を全く知らない現実は不安そのものであった。

藤田淳一師匠から紹介の民謡会館、『ふなおか』に勤務したのが月が明けた6月1日。
この店にはNHKのど自慢民謡日本一に輝いた、看板歌手、田中アエ子、妹の田中きよ子、工藤裕子、そして現在、東北民謡では女性No.1とその名も高い川崎マサ子先生の弟である川崎浩の四人の歌手がいた。

秋田は津軽の隣県では有るが、その当時は本格的な津軽三味線を弾く人は少なく、ふなおかに若い津軽三味線を弾く人が入ったとの噂は瞬く間に広まり、その品定めに来るお客も少なくはなかったのである。

田中アエ子さんは秋田でも県北の青森に近い所の生まれで有るためか、好んで津軽民謡を唄ったので、秋田に居ても津軽三味線を弾く機会は多かったし、津軽民謡を唄いたい民謡歌手からの仕事の依頼も多かった。

半面、当初苦労したのが秋田民謡の三味線。七五三時代にも一通りは弾いていたが、現地のそれとはかなり弾き方の違うものが多かった。
秋田に帰って最初の難関は現地の三味線を学ぶ事、それまで津軽一筋に勉強してきたのでこれには些か苦労した。

つづく

テーマ:津軽三味線
ジャンル:音楽