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★津軽三味線『藤秋会』家元★加藤訓の公式ブログ ★加藤訓『七五三』奮闘記
昭和55年の五月、七五三を退社する事に成った。
まだまだ東京に居たい気持ちが強かったが妹が東京に出てきて、両親が二人に成ってしまったのが最終的な決断の理由だ。

田舎では長男が親を見るのがごく当たり前だと言う風潮がまだまだ残っていたので、東京を離れるのは残念では有ったが、、、、

東京に居ればまた変わった人生に成っていたかも知れないが、結果的に秋田に帰った事がその後の三味線生活に大きな影響を与える事に成る。

七五三生活もあと少しと成り、店には連日贔屓のお客さんがその事を知り来てくれた。
店の芸能部の面々も毎日の様に食事に誘ってくれ、いよいよ辞めるんだなあと実感が沸いて来る。

この二年余りの七五三生活はその後の三味線生活の大きな財産と成り一生忘れる事の出来ない思い出に成った。色々お世話に成った方々に挨拶を済ませ、故郷、秋田での新しい三味線生活が始まる。

新天地は秋田一の歓楽街、川端に有る民謡会館、『船岡』
期待半分、不安半分、いよいよ民謡王国秋田での生活が始まる。

秋田編につづく

テーマ:津軽三味線
ジャンル:音楽
私が特に好きな津軽三味線奏者の中に、師匠だった藤田淳一はもちろんだが、前撥の音に他には例を見ない特徴が有ったのが当時、札幌を拠点に活躍をしていた佐々木孝師匠。

この人は秋田県の本荘市の隣、山あいの大内町の出身。
眼光鋭く、顔は浅黒いがまるで映画スターの様だった。
以前、偶然羽田空港でお会いしたが、なんと、真っ白な毛皮のロングコートを着て、数人のお供を従えて颯爽と飛行機から降りて来た様は、何とも格好良く自然で絵に成っていた。
風貌は怖そうだが非常に優しく丁寧な方で、良く声を掛けて頂いた。

前撥の音が実に歯切れが良く小気味良い。
何とか真似出来ないかと色々やって見たがそう簡単に出来る物では無かった。
七五三退社後、秋田に帰ってからの事だったが、初めて仕事でご一緒したのが、東京浅草公会堂。
七五三にも何度かいらした事が有ったので、顔は覚えてくれていて、親しく話をしてくれた。

間近で見る良いチャンスだったが、核心的な事は、良く解らなかった。
逆に私に『鹿角おやまこ』の三味線を教えてくれと言われ、1時間程恐れ多くもこちらが指導する事に成る。
それ以来何度かご一緒したが、師匠は私の事を俺の鹿角おやまこの先生だと必ず周りに紹介していた。
恐れ多い事で有る。

そんな師匠の人柄にも惚れたせいか、何としてもあの音を習得したい思いが強く成ったので有る。
師匠で有る藤田淳一の三味線は別の意味で別格で有ったが、それ以来私の佐々木孝研究が始まる。
奇しくも藤田淳一師匠の両親が秋田県人、佐々木孝師匠も秋田県人で何だか縁を感じる。
やがて私は悩んだ揚句、ついに七五三を離れる日が来る事に成る。

つづく

七五三に入社して間もなく二年に成る。
この頃に成ると稽古の甲斐有ってか大分この世界にも馴染んできた。
贔屓のお客さんも結構出来て、店が終わると必ずと言って良いほど食事に誘われた。

相撲のタニマチと同じで芸人を連れて歩くのも一種のステイタスだった時代だ。
当時、七五三の閉店は11時、民謡酒場では、七五三が一番早く終わるので、お客さんと一緒に他の店を覗いて三味線談義に花を咲かせた。

今は津軽三味線を愛好する人が多いからかも知れないが、残念乍、どれを聞いても、余り特徴が無い。
したがって、誰が弾いているかもわからない。

当時、津軽三味線で名前の通った人と言えば、
沢田勝秋
藤田淳一
五錦竜二
高橋祐次郎
佐々木孝
小山 貢
成田光義
福士豊勝
佐々木光義
木田林松次
福居展大
田村 豊
などで有るが 、私が得に好きだったのが、藤田淳一、沢田勝秋、佐々木孝の三人。

それぞれに特徴が有りワンフレーズ聞けば誰が弾いてるのか瞬時に判別出来た。
それは私が七五三を離れた以降何年も変わらなかった。
三味線は個性が出るし聞けばその人の性格まで分かる。
だからこそ面白いのだ。

日頃、大都会のビルの中だけで生活をし、津軽をその目で見た事が無い人に本当の津軽三味線は弾けない。

当時の名手は津軽を知り尽くしているからこそ、何とも言えない情感を出せたのだろう。
まるで目をつむれば、そこに津軽が有る。
津軽の情景が一面に広がる様な三味線で有った。

ナンバーワンで無くても良い。
オンリーワンで自分にしか出来ない特徴を持てば良い。

私の考え方が変わったのは丁度この頃からである。

誰にも出せない音が出来ないものか?
試行錯誤が始まる。

つづく

民謡会館七五三に入社して丁度一年が経った頃、七五三に有る人が津軽三味線で入って来た。

名前は太田元。
青森県は竜飛岬の今別町の生まれ。
なんとこの人は私の海上自衛隊時代の上官だった。

これも何かの縁だと思うが、私が二番目に赴任した艦の名前が『つがる』
その艦に太田さんはいた。

しかも太田さんの弟が私と同期で最初に乗った艦が同じで有った。
私が津軽三味線を弾くのは弟から聞いてたらしく、つがるに着任するのを楽しみにしていたと言う。

着任早々、『お前が加藤か、弟から聞いているぞ、何か困った事が有ったら俺に言え』。その後、何かに付けて気を配ってくれた。

そんな私に刺激され、彼も三味線を始める事に成る。
その後、私は進路を悩み抜いて、どうしても三味線が捨てきれず、この世界に入る事に成るが、まさか彼が後を追って来るとは夢にも思わなかった。


人生は不思議で有る。以前上官だった人が、今度は後輩に成る。
そんな太田さんとは、まるで兄弟の様にいつも一緒だった。

朝から晩まで三味線付け。 酒を飲んでも三味線の話ばかり。
朝まで酒を酌み交わし将来の夢を語った。

もう30年以上前の話だ。

そんな太田さんは、現在、太田家元九郎 の名前で落語協会に所属し寄席で津軽三味線を弾いている。

たまたま、偶然にも一昨日、鹿児島の稽古が終わり、皆さんと食事をしていたら、テレビで『真打ち揃い踏み』と言うイベントが種子島で有るとのコマーシャルが流れていて、太田さんも有名落語家と来ると言う。

昔の仲間が、頑張っているのはとても嬉しく励みに成る。
『頑張れ元九郎』

つづく

ある日の事、山田先生が、訓、 淳ちゃん東京に来るから習いに行きなさいと言われた。

えっ?何の事か解らずキョトンとしていると、当時の津軽三味線界で三本の指に数えられると言われた、藤田淳一先生が、函館から東京に住まいを移して、しかも七五三の直ぐ近くに来ると言う。

藤田淳一と言えば、憧れの人で私は先生のテープは殆ど聴いていて、コピーをしようと頑張っても、旋律が複雑過ぎて大変苦労していた。
そんな先生になら是非習ってみたいと二つ返事でお願いした。

数日後、山田先生と旦那さんに連れられて、マンションにお邪魔したが、そのお顔は大変穏やかで、優しく迎えてくれた。

藤田先生の御両親が秋田県人と言う事も有り大変親近感が湧き、そんなご縁も有り先生は私の事を大変可愛がってくれ、休みの日は良く飲みに連れて行ってくれた。

何日かして初めての稽古だったが、当時は譜面などあるはずも無く、しかも手が複雑でほんの少し覚えるのにも大変苦労した。
しかもその日練習した所までしかテープを録ってくれない。

昔はみんなそうだったが、自分が苦労して覚えた物をそんなに簡単には教えない。

一曲仕上がるまでに、随分長くかかったものだ。
しかも譜面が無いのでその都度弾き方が違う。
これには参った。

今は至れり尽くせりだが、簡単に覚えられるものほど忘れるのも速い。
苦労して覚えたものは中々忘れないものだ。
藤田先生の曲は非常に高度だ。繊細でしかもつぼは絶対狂わない。

私が聞いたところに寄ると確か9歳から津軽三味線を始めて中学生の頃には、聴く人を唸らせたと言うから、並の人間では無いのだろう。

しかし私が接しているとそれも納得だった。
先生はとにかく三味線が好きで、一日中三味線を弾いている。
酒を飲んでいても三味線を絶対離さない。

まるで三味線を肴にして酒を飲んでいるようだった。
お陰で私は素晴らしい三味線をこれでもかと言うほど、間近で聞く事が出来た。

『好きこそものの上手成れ』と言うがまさに藤田先生の為に有る言葉だろう。
しかし、ただ好きなだけでは此処まで成らない。

先生と接していて名人と言われても、ひたすら努力を惜しまなかった事を私は知っている。

舞台で曲弾きを演奏して客席から拍手が来ると、これ以上の良い顔は無いと言うくらいの笑顔に成る。
そんな藤田淳一先生も今はいない。

つづく

惨憺たるデビュー戦だった。
数日前からやっと立ち直り連日三味線に明け暮れる毎日。
山田先生のご指導で段々と唄付けのコツも解って来た。

この頃に成ると下手な私の三味線でも少しずつでは有ったが贔屓のお客さんも付いて来た。
店には連日色々な方々が来たが有る日の事、津軽三味線の神様と言われた方が来たのだ。

楽屋で次の出番の曲をつまびきで練習していると、中居のお姉さんが、『木田先生』がお見えになったよ、と教えてくれた。

えっ! 木田先生?
楽屋から飛び出し客席を見たら、なんと!あの津軽三味線の神様、『木田林松栄先生』とお供の方が居るではないか。
プログラムの写真やNHKのテレビでは何度か見た事が有るが、本物は初めてだ。

早速ご挨拶に伺い自己紹介をしたら、『おう、秋田の若いもんか、俺も秋田には巡業で良く行ったものだ、頑張りなさい』と、励ましてくれた。

二回目のショーが始まる時間に成ったが、さすがに、神様の前で弾くのは緊張した。
バンド演奏に代わった時に木田先生が楽屋に来て一曲弾くと言う。

芸能部長の大場さんが、どれでも好きなのを使って下さいと、壁に掛かっている三味線を指差すが一番左端に掛けてあった、私の三味線を取ったのだ。
私が、良い三味線ではないと言ったが、これで良いと言う。

早速舞台へ上がり、芸能部長が紹介すると、お客さんは大喜び。
ダダーン、ダダーン、ダダーンダンダンダン。

これが本当に俺の三味線か?
と思うほど音が違う。

弾く人が違うとこんなにも違うものかと感心した。
客席からは割れんばかりの拍手の嵐。

演奏が終わり楽屋に来た先生は良く鳴る三味線だったと、礼を伸べられ、頑張る様にと励ましてくれた。

そして『津軽三味線は掛け声が大事だ、掛け声を大きくかける様にしなさい』と言われた。
この事が現在も私の掛け声が大きい原因で有る。

大変失礼ながら、その風貌は鬼瓦の様で、丸太の様な太い腕、手はグローブの様だったが、金縁の眼鏡の奥の眼差しは、優しさで溢れていたのを今も忘れない。

それから間もなく、木田先生は宮城県、石巻の公演で倒れられ帰らぬ人となったのである。
今でも掛け声をかける時、木田先生の言葉を思いだす。

つづく

司会の前振りが有りいよいよショーの始まり。
幕開けはじょんから節の津軽手踊り。
これはなんとか無事に終わった。
続いてA氏の津軽民謡。始めがよされ節。
先程楽屋で指摘されたテンポを気をつけて弾いてるつもりだが、緊張のせいで、段々速く成るのがわかる。

それでも一節目は何とか弾けたが、二節目に成ってから事件は起きた。
何と先程楽屋で合わせて頂いたのと、歌詞が全く違う。そして節も違う。

頭が真っ白に成り、パニクってしまった。
こうなれば、後は奈落へまっしぐら。
何を弾いたか解らないうちに終わってしまった。
顔はひきつり、意識朦朧状態。

山田先生の、訓、落ち着いてしっかりの声で我に帰った。
しかし余りに予想外の出来事で、中々冷静に成れない。

そうしているうちに、二曲目の津軽小原節。前弾きは何とかこなしたが、弾いているうちに、もしかして、この曲もそうではないかと不安がよぎる。

案の定、唄尻の唄い方が、楽屋とは全く違い合わせられない。
しかしこうなれば成る様にしか成らない。
私に出来る事は開き直るしか無かった。
しかしいくら開き直っても、結果は明らか。
惨憺たるデビュー戦に成ってしまった。
その後の山田先生の曲は、日夜勉強したお陰で、何とかこなしたが、楽屋で私は余りの自分の不甲斐無さにA氏の顔をまともに見る事が出来なかった。

ただただ、詫びて一刻も早くこの場から立ち去りたかった。

帰りのタクシーでも、余りにも落ち込んでいる私を見兼ねて、山田先生が励ましてくれたが、その言葉が一層、虚しさを増した。

これがいわゆる、相撲の世界で言えば『可愛がり』と、称するものか?
後で知った事だが、津軽民謡の世界では良く有る事だと聞いた。

三味線弾きがどの程度出来るか、確かめる為、或は良い意味で三味線弾きを育てる為。
どんな唄い方をしても付いて来れ無ければ、津軽民謡の伴奏は出来ないよとの叱咤激励の意味が有ると言う。

こうして、経験を重ね百戦練磨、聞き手を納得させる弾き手が作られて行くので有る。
衝撃的なデビューでは有ったが、これを機にA氏はその後私を大変可愛がってくれる様に成ったのだ。
つづく

いよいよその日が来た。
夕べは緊張の余り二時間くらいしか寝れなかった。
衣装、三味線は大丈夫か、糸の替えは有るか、調子笛は有るか、
同じ事を何度か確認する。

傍から眺めると、まるで遠足に行く小学生が何度も荷物を出し入れする様を見るようだろう。
9時に山田百合子先生のお宅にお迎えに上がり、タクシーで会場へと向かう。

会場へは30分程で着いた。
既に店にお客としてたまに顔を出していた、青森出身男性歌手A氏と、津軽手踊りの若い方が先に楽屋入りしており、挨拶を済ませて、荷物を解く。

今日は商工会イベントのアトラクションで30分程のショーだ。
A氏が二曲、手踊りが二曲、 山田先生が二曲、 計6曲。

舞台までまだ一時間程有るので、A氏に踊りの曲、じょんから節と、津軽小原節、津軽よされ節を一度合わせて頂くようにお願いした。
じょんからは踊りの伴奏なので、何とか出来た。
続いて小原と、よされ。ちょっと速いからもう少しゆっくり弾けば後は大体良いと言う。
前に伸べたが、津軽民謡は唄い手により、曲が同じでも、全く唄い方違う。
初めて唄付けする時は、節廻し、節の長さ、テンポなど、慣れないと本当に神経を使う。
色々なパターンをシュミレーションして練習はして来たが、A氏の唄い方はその中の一つだったので多少安心した。

神様、仏様、どうか上手くいきます様に。
いよいよ出番の時間が来た。

つづく

オリンピック景気に湧いた昭和30年代後半。東京には全国から労働者が駆り出された。

中でも東北は、青森、秋田からの人が多く、夜とも成れば故郷の臭いを求めて民謡酒場へと足が向く。
そこには郷愁にかられた同じ思いの人々が集い、店は連日大盛況で、店主は面白いくらい儲かったと言う。

中でも人気が有ったのが、津軽民謡、津軽手踊り、そして津軽三味線だ。
今まで巡業等で、苦しい生活を強いられていた芸人は当然の如く、我も我もと、東京に出て来て、浅草界隈の民謡酒場に出演。
それまでの生活とは比べものに成らないくらいの収入を得たと言う。
そんな賑わいも50年頃を境に段々衰退して行く。
私の民謡会館七五三入社は53年なので一時の賑わいからは大分落ちた頃で有る。

それでも浅草界隈にはあげれば、七五三を筆頭に、りんご茶屋、秀子、追分、みどり、山唄、浩司会館、鶯、小笠原、小松茶屋など、数多くの民謡酒場が有った。

当時、七五三の定休日は水曜日。
休みの日とも成れば、夕方から民謡酒場のはしごがお決まり。

ただ、酒を飲みに行くのが主では無く、勉強しに、偵察と言った方が良いかも知れない。
ショーの時間に合わせて行き、その店の三味線弾きの腕前を偵察。良い技術を間近に見られるのは、最高の勉強に成った。

逆に他の店が休みの時は、七五三にもほとんどの三味線弾きが訪れ閉店後に一緒に夢を語りあったものだ。
今は中々間近で見たくても、店そのものが無い。

あの頃は良かった。
競って勉強する場所が有った。
山田百合子先生にお供する日まで後三日。

今日も舞台の幕が開く。
つづく

連日山田先生のご指導の甲斐が有って、何とか唄に合う様に成って来た。

津軽民謡は同じ曲でも唄い手によって全く違う。

極端に言えば同じ曲を100人歌えば100人が皆違うのだ。

普通は有り得ない事だが、これが許されるのが津軽民謡で有り、面白い所だ。

ただし、唄う方は良いかも知れないが、伴奏者はたまったもんではない。

一人一人、長さが違うし、節も全く違う。
同じ曲乍、全然違う曲を聞いているようなのである。

また、唄い手によっては同じ曲でも毎回違う様に唄う。
まさしく伴奏者泣かせ。
俺は一体どっちに行けば良いんだ?と言った感じで訳が解らなく成ってしまい、頭がパニックになるのだ。

ところが慣れて来てコツを掴むと、これが面白い。

次にどの様な節を使うか、唄い手と、駆け引きをして、見事的中した時の、達成感はまさにこれ以上の快感は無い。

勉強を重ねて行きコツを掴めばどの様に唄われても伴奏出来る様に成るが、そこまで行くのが至難の技、茨の道の連続なのだ。

最近の津軽三味線ブームは、誠に結構な事だが、曲弾きばかりで唄付けを全くやらない。
本当の津軽三味線の醍醐味はこの、唄付けなので有りこれを知らないのは可哀相だ。

しかし残念な事に、今の若い唄い手は、余りにも簡単に唄い過ぎて、この様な体験をしたくても、唄ってくれる人がいないのは、寂しい。

それだけ津軽民謡は難しいと言う事だろう。山田先生のお供で、仕事に行く日が段々近く成って来た。

今日も夜が更ける

つづく

この頃の私は、一日中三味線浸けで有った。
3階の寮に住んでいたので、朝起きれば舞台に上がり三味線を弾く毎日。

下手な三味線程、耳障りでうるさい物は無い。
2階には専務さん一家が住んでいたが、朝からじゃんじゃん、鳴らすので、かなり安眠の妨げに成ったと思う。

山田百合子先生のご主人も七五三で働いていて、お二人は直ぐ近くに住んでいた。

私を哀れに思ったのか、昼頃に成ると必ず店の電話が鳴る。

訓、ご飯食べに来なさい。
本当に面倒見の良い方で、いつの間にか私は山田百合子先生を母さんと呼ぶように成る。
店は5時からなので、その前に近くの銭湯に行くのが日課。
4時には店に出て掃除をする。

その頃に、板場は既に仕込みに入っており、板さんのトントン、トントンと打ち下ろす包丁の音が、とてもリズミカルで心地良い。

やがて中居の、お姉さん達が出勤する。
4時半を過ぎると芸能部の面々、バンドの皆さん方が次々と出勤して来る。

民謡酒場にバンド?
不思議に思われるかも知れないが、なんとこの七五三には生バンドが入っていたのだ。

民謡が終わるとがらりとムードを変えバンド演奏でお客を楽しませる。
七五三芸能部には舞踊部も有り、時には、紀伊國屋文左衛門や、俵星玄番などの、長編歌謡舞踊等の生演奏もしたので有る。

そんな七五三は、民謡人の憧れの場所で有り、下手乍も此処にいる事がステータスで鼻が高かった。

連日、山田先生に唄付けをして貰うも、中々上手く行かない私。

そんな私に、そこそうで無くこうしなさいと、口三味線で何回も丁寧に教えてくれるが、技術の無い私は、中々思うように出来ない。
悔しくて、悔しくて

今日も皆が帰った店の中には、私の悲鳴にも似た、三味線の音だけが寂しく響くのである。
つづく

昔、昔、私が修行した所は、今は既にないが、同年代の津軽三味線愛好者は、知る人ぞ知る、浅草民謡会館、七五三である。

300名を収容出来る此処は民謡会館と言うよりは小さな劇場の様で有った。


浅草界隈には当時数々の民謡酒場が有ったがその規模はせいぜい50人も入れば大きい方。

七五三がいかに大きかったか想像出来る。

全盛期、華やかりし頃は、はとバスのコースにも成っていて、国立劇場で松竹歌劇団を観劇した後に食事をしながら、津軽民謡を聞いたと言う。

そして此処にはオランダのユリアナ女王もいらしたと言うからおどろきだ。


津軽三味線の名手も此処で活躍した人が多い。

挙げれば、沢田勝秋、五錦竜二、大条由雄、佐々木光義、白川ひろし(現、新田ひろし)、故、木田林松次、などなど。


現在も日本の津軽三味線界をリードしているそうそうたる方々が此処にいた。


電動の緞帳が開くと、舞台の後が硝子張りに成っていて大きな岩から滝が豪快に流れる様は、圧巻で有った。


私が此処に入社したのが昭和53年、まだ春遅い3月。
下足番からのスタート。

この頃の七五三には、先に紹介した方々は既に居なく、津軽三味線は、三代目、長谷川栄八郎、秋田の佐藤民夫、芸能部長の大場清、の三人。


ショーの時間になると舞台の一番端で下手な三味線をピコピコ弾く毎日だったが、とても充実した日々だった。

此処には修行時代、最もお世話に成った、津軽民謡界の女王と言われた、山田百合子さんがレギュラー出演していたが、ある日の事。

訓、来週の日曜日に仕事に連れて行くから勉強しておきなさいよと言われた。


突然の事で驚いたが、余りの嬉しさで天にも昇る気持ちで有った。
それもそのはず、山田百合子と言えば、津軽民謡界では誰もが認める一流中の一流で有る。

十八番は津軽あいや節で、あいやの百合子か、百合子のあいやかと言われていた。

が、しかしその喜びは直ぐに不安に変わった。

なにせ、まだまだ山田先生の伴奏を付けるような三味線は弾けない。

次の日から舞台で弾かせて頂いたが、全く唄に合わせる事が出来ない。


こんな汗がいったい何処から出て来るんだろうと思うくらい、緊張の連続で、落ち込んでしまった。
どうしたら上手く合わせられるんだろう?

閉店後、皆が帰って静まり返った大広間に、私の悲痛な叫びにも似た三味の音が響く。


この日から山田先生の唄を録音した、大きなカセットデッキとの格闘が始まる事に成る。 つづく

テーマ:津軽三味線
ジャンル:音楽