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★津軽三味線『藤秋会』家元★加藤訓の公式ブログ ★加藤訓「家元が行く」
先日こんな素敵な言葉を目にした。


諦めないという土に
思いという種を蒔いて
信じるという水をやり
希望という芽が伸びて
夢という花が咲く


【夢先案内人】を目指して生きてきた私に勇気を与えてくれる言葉です。

津軽三味線全国大会が東京で開催されてから勢いがつき、津軽三味線ブーム到来!
東京に続き2002年、平成14年には大阪で、更にその5年後の2007年、平成19年には名古屋で開催される様になり、出場者も年々若年化、10代で優勝者が誕生する様になった。

人気が人気を呼びその後青森市、神戸、滋賀、仙台、宮崎、岡山でも全国大会が開催されるという盛況ぶり。
今や何処の大会を覗いても出場者の大半は20歳前の若い方々で溢れかえっている。

手前味噌になるが、私の発案でオリンピックプレゼンテーションとして、2014年、2016年には日本武道館でそれぞれ1124人、1911人という大人数での津軽三味線合奏がギネス世界記録に登録された。

昭和40年頃まで地元青森では坊様芸、角付け芸として蔑まされていた津軽三味線は、今や世界に誇れる日本の代表音楽として評価されその地位を確立した事は紛れない事実であり、完全にその市民権を得て更なる進化を遂げている。
テレビに耳を澄ませばバック音楽として津軽三味線の音色が聴こえてこない日は皆無であり、完全に不動の地位を確立している。


40年以上前に弘前出身の義理の叔母に【何が悲しくてホイド(乞食)の真似をしなくてはならないの】と言われた悔しい思いを胸に、その地位の向上をただひたすらに願って来た津軽三味線の現状を見るに、私の役目も一区切りついた様な安堵感があります。


津軽三味線誕生から150年、幾多の困難を生き抜き、津軽三味線の発展に尽力された全ての先人に心から感謝と敬意を表し、更に津軽三味線が日本を代表する音楽として発展することを祈念しこのコーナーを閉じます。



おしまい。

弘前と金木での津軽三味線全国大会の評価が次第に注目され、若い方々が津軽三味線の魅力に注目する様になり、その大会は遂に聖地青森以外で初めて東京で開催。

1998年平成10年には国内で3番目の第1回津軽三味線コンクール全国大会が、日本民謡協会の主催で東京日比谷公会堂で行われたが、首都東京で津軽三味線コンクールが行われるとの事で、非常に盛り上がったのを覚えている。

この頃になると弘前、金木の大会も含めて段々と若い方々の出場が目につく様になり、確実に津軽三味線が評価されて来ていることを肌で感じた。
記念すべきこの大会で藤秋会は見事に合奏で優勝した。
結果を確実に積み上げて行くのもその地位を上げる手段である。


藤秋会はその前年の3月にニューヨークカーネギーホールで単独公演を行うことが出来た。
何と参加者は160人。

忘れもしない3月3日、朝からみぞれが降る悪天候にもかかわらず2000名を超えるお客様のご来場をいただき、ラスト曲、津軽の響き終了後、総立ちのスタンディングオベーションにあまりの感激でボロ泣きをしたのが忘れられない。

そして何とその模様が日本テレビのズームイン朝で、ニューヨークから中継で放送されて国内に知れ渡ることとなり大きな反響をいただき、その事が評価され秋田市から芸術選奨をいただいた。

翌年、平成10年には和楽器で初となるオーストリア、ウイーンのウイーンフィルの本拠地、新年元日にニューイヤーコンサートの模様が世界中に中継される黄金のホール、あの【楽友協会ホール】での藤秋会単独公演も行い、次第に津軽三味線を世界に発信して行く事にも力を入れ、少しずつではあるが津軽三味線の地位を向上させる夢は着実に前に進んでいる事を実感出来た時代。


平成13年に藤秋会20周年記念公演を秋田県民会館で行ったが、それまでの秋田の民謡会の発表会はせいぜいチケットは2000円ほど。
私はその公演でチケット代を5000円に設定。

オペラや歌舞伎などは1万2万が当たり前なのに、どうして民謡はそんな値段なんだろうと常日頃思っていて、良いものをやれば絶対お客様は高くても納得するはずだし、それをやる事が民謡の評価を上げる事になると思い5000円にしたが、案の定非難ごうごうで石でも飛んで来そうな雰囲気。
しかしながら結局満席にしてこれをやり遂げた。


つづく。

ここで津軽三味線の魅力を考えてみたい。
一般的に津軽三味線と言えば津軽五大民謡のイントロと唄中を演奏することになるが、代表的な曲が皆さんご存知の津軽じょんから節。

それによされ節、小原節、三下り、あいや節となる。
これで5つ、5曲かと言うとそうではなくて、じょんから節でも、旧節、中節、新旧節、新節と4つもある。
それに、よされ、あいや、にも旧節、或いは古調なるものがある。

小原節は旧節、中節、新節、そして三下りと、ざっとこれだけで、12曲になる勘定、しかもどの曲も長い。
津軽三味線の面白いところは、クラッシックと違い、統一譜面はなく、弾き手によってフレーズがそれぞれ違う。
ここがある意味良いところでもあり厄介なところでもあるのだ。


分かり易く言うと10人いれば10通り、100人いれば100通りの弾き方が存在することになる。
いわゆる津軽三味線は各曲目の定義はあるが、それを崩さなければどんなフレーズでもオーケイで、自分で創作、いわゆる作曲したものを弾いて良いところが面白いところ。


若い愛好者に津軽三味線の面白さを聞くと、自分の世界を作れるところに魅力を感じると言うが、現代人は協調性が求められると面倒くさいと思う事から、自分の殻に閉じこもって自由に作曲演奏出来るところが、特に今の若者には好まれる様だ。

ただし、昨今の津軽三味線は余りにも逸脱し過ぎて、津軽三味線とは言い難く、太棹三味線と言わなければならない様なものも多い。
津軽三味線は津軽の独特な環境下でたくましく生きて来た音楽であり、そのフレーズから津軽を連想出来ないものは津軽三味線と呼ぶべきではない。

瞼を閉じればそこには津軽の美しくも厳しい四季織々の情景が浮かぶものでなければ、頭に津軽と言う冠を付けてはならない。

時代の進化に伴い音楽が変化していく事はある意味当然だろうが、津軽を頭に付ける演奏と、それ以外を一色単にして津軽三味線と呼ぶのはやめてほしいものだ。
つづく

昨日令和最初の免許授与式が熱田区の賀城園で行われました。










秋田、宮崎、兵庫、三重、愛媛と今年は遠方からの授与者でしたが、新緑まばゆい中庭をのぞむ賀城園ならではの和室は厳粛な式にはぴったりで、20年も利用させていただいる所ながら、改めてここの素晴らしさを感じます。


厳粛な授与式後の宴席は打って変わって和やかな雰囲気で出席者も満足の様子。

二次会はお馴染み上海美食で更にその絆を深めた一日になりました。


授与者の皆さん、誠におめでとうございます㊗️
更なる精進を期待致します。

義理の叔母の言葉に奮起した私が目指したのは、先ず生活がしっかり出来る様にしようと思った。それがきちんと出来ないと津軽三味線の評価は上がらない。

幸運な事に民謡日本一の歌手三人と三味線、尺八の5人で五星会という民舞団が秋田にあり、歌手は民謡日本一、長谷川久子、佐々木常雄、千葉美子、伴奏人にその後名人位になった、三味線の佐々木實、尺八の藤丸東風とそうそうたるメンバーの専属として給料制で来てくれと声がかかった。

しかも舞台がある時だけ行けば良く、その他は自由だと言う有難い仕事をいただいた。
当時五星会の看板である長谷川久子先生は東北の女王と言われた方で、この方の専属として伴奏を付けられるのはある意味でステータスであった。

津軽三味線全国大会が弘前で開催されたのが1982年、昭和57年で弘前を拠点に活動していた山田千里先生が始めたが、当初出場者は大半が山田一門で身内のコンクールの様だった。
藤秋会が初めて合奏で参戦したのが第6回大会の時で昭和62年、この時運良く優勝したのには正直自分でもビックリした。

時代が平成に変わった年に新たに弘前からほど近い金木町で、第1回津軽三味線全日本競技会が開催されこの時も合奏で優勝。
少しずつではあるが津軽三味線が細やかながら注目される様になった気がする。

しかし盲人の角付け芸として蔑まされた津軽三味線に対する本当の評価は、それで食べて行くことを証明することで認めてもらえる事だと思っていたので、まずは自身の生活を安定させることが先決。いくら立派な音楽でも食べれないものに対する評価は低い。

この頃普通の家庭でピアノやバイオリンを親が子にやらせるのはステータスであり、子供に津軽三味線を奨励する親はまだまだ稀な時代で、津軽三味線に対する評価の低さがそうさせていたのである。
それもそのはず、ピアノやバイオリンと言えばヨーロッパの裕福な貴族達が、華やか宮殿で繰り広げられる舞踏会に登場する楽器で、貧困を想像させる津軽三味線とは雲泥の差なのである。

私のライフワークは津軽三味線の地位を上げてやがてピアノやバイオリンと肩を並べられようにすること、この目標は長年変わることはない

いつ来るかわからない仕事を待っているのでは生活が不安定であり、舞台活動から教室をしっかりと確率して行くことに軸足を動かしたのもこの頃である。

県外教室が次第に増えていく中で【絶対弾ける津軽三味線】と題したビデオを出した事でその反響は想像以上で、次第にその指導法が広まりお弟子さんも増えて行き生活も安定して来た。
それでもこの頃の秋田ははまだまだ三味線で食べている事への理解度は低く、【加藤さん、お仕事は?】と聞かれ三味線で生活してますと言うと、必ずと言って良いほど【えっ!三味線ですか?】と聞き返された。


その理由はそんなものでは食べられないだろうとの先入観が根底にあったからに他ならない。


つづく

海上自衛官との別れを告げ七五三に入社した私はそれまでの生活と一変、日々朝から晩まで津軽三味線を追求する日々に変わった。

当時はまだまだ若い人が津軽三味線で身を立てようなどと思う人は少ない時代。
昔よりも意識は少しずつ変わりつつはあったろうが、まだまだその職業に対する評価は高くはなかった。
その事をはっきりと感じたのはその後に秋田に帰って来てから。

秋田市内の民謡酒場の専属伴奏として店に出ながら、当時秋田の民謡界では津軽三味線を弾ける人は珍しく、直ぐに教えてくれと言う方々が現れて教室活動も始めたが、青森の隣県、秋田も三味線奏者や民謡に対する評価は決して高くはなかった。

民謡王国として不動の地位を築いていた秋田県だが、民謡が好きと職業としての評価は全く別の話なのだ。
それは職業として成立させるに現実は中々厳しいものがあり、その事が評価されない所以であったのだろう。
極め付け、とりわけショックだったのは弘前出身の義理の叔母の言葉。


母親の兄、私にとって叔父は秋田県警の警察官であり、その連れ合いの義理の叔母は弘前城下の寺の娘であった。
叔母にすれば津軽三味線は盲人の角付け芸で負のイメージしかなかったのでしょう。
まして寺の娘の叔母は特別にその意識が強かったのだろう。

叔母は遊びに行った私はに対して、【訓ちゃん、あなた何が悲しくて、ボイドの真似しなきゃならないの】と。
ホイドとは、津軽や秋田では一言で言えば乞食のこと。
叔母にしてみれば身内からその様な者が出るのは耐え難かったに違いない。


流石にこれにはショックでした。
よ~し、今に見ていろ!
私は叔母のこの言葉で絶対にこの世界で立派に生きてやると心に誓ったのです。


つづく

昨日の朝のワイドショーで県民が自分の住む県に感じるストレス度合いで、何と私が住む秋田県が昨年に続いてワースト1だそうです。

私が秋田県に対して感じるストレスは確かに雪が降るとかはありますが、逆に満足度をプラマイすれば日本一ストレスの高い県だとは決して思いませんが、ちょっと残念。

今まで多くの会員や友人が秋田を訪れましたが、概ね評価は上々で喜んでいただいてると自負してます。
食べ物は美味いし、酒も美味い。
更に美人が多い。

世界一、大曲の花火に、世界文化遺産のなまはげに名湯の数々。現在その人気は世界的にうなぎ上りの、秋田犬。みちのくの小京都、角館武家屋敷に枝垂れ桜。
持ち家率、人口あたりの美容院の数、70歳以上の雇用率はいずれも全国ナンバー1。
小、中学生の学力テストは常に国内トップクラスを維持している。


こんな素晴らしい秋田がストレスワースト1とは、何かの間違いではないだろうか?

確かに日照時間は日本一短い、所得も低い、高齢化率も全国一、脳卒中率もナンバー1    自殺率もずっとワースト1だから、そんなところからきた数字かも知れないが、秋田県は良い所です。


ストレスは1番身体に悪いと言われてるが、ストレスを無くして健康的な生活をおくりたいものだ。

民謡王国と言われる秋田で生まれ育った私だったが、民謡には全く興味がなかった。

当時SAXを吹いていたことから壊れた三味線を友達がくれたことで始めたのが17歳の時、それも独学である。
高卒後に横須賀の海上自衛隊に入隊、教育隊を経て艦隊勤務になってから母親に三味線を送ってもらい、休日に練習を再開した。

この世界に入る決定的な判断をしたのは、当時乗艦していた、香取が、定期整備で東京石川島播磨重工のドックに入った時、休日にかねてから行きたかった浅草で最も大きな民謡酒場、七五三に足を踏み入れてしまってからである。

その時の衝撃は今でも鮮明に覚えている。
玄関には民謡会館七五三、と染め抜いた半纏を着た男性が下足番として三人もいて、私が店に入ると何と!マイクで【いらっしゃいませ、いらっしゃいませ、お客様ご案内】とアナウスする、

そうすると担当の中居さんがこれも和服に七五三と染め抜いた赤い前垂れをしてさっと笑顔で出迎えてくれる。
中に上がってその広さに圧倒された。
そこは300人はゆうに入りそうな座敷が広がり、その正面は大きなステージでガラス張りの先には岩から豪快に吹き出す滝が流れていて、その壮観さに度肝をぬかれた。

凄い!これが噂に聞いた七五三かあ。民謡酒場と言うよりは劇場である。
ここで津軽三味線を本格的に勉強したいと思うにさほどの時間はいらなかった。
私の心を鷲掴みにするにその場所は実に衝撃的であり、店を訪れたのは運命であり、今に思うと必然だったのだろう。


何度か通ううちに私の心は決まっていた。
良し!ここで修行して津軽三味線で身を立てようと。
艦の上官には随分考え直せと言われました。
それもそのはず、その歳の四月から、乗っていた香取は半年の世界一周の遠洋航海に出る予定だったのですから。

今でも世界一周は中々出来ることではく、40年以上前の話、当時は叶わぬ夢だったのですからそれを捨てて何で?と思ったのでしょう。
それと三味線で身を立てる事には全く理解が出来ないほど、その時の津軽三味線に対する社会的地位は、その上官には高くはなかったのでしょう。
その当時の津軽三味線の地位はまだそんなものだったのです。


しかしながら、私はあえて反対を押し切りその道に飛び込む決意をしたのです。


つづく

当時の津軽は天然痘による失明者が多かったという。
それに厳しい冬を越すのに暖房は欠かせないのは当たり前で、換気の悪い家で囲炉裏にサルケと言われた津軽独特の泥炭をいぶす煙で眼病を患う人が多く、更に医療も進歩してない状況からすると、なるほど失明者が多かったのも納得いく。

先に述べた様に失明者が生きていく術は三味線を弾いて角付けをするか按摩になるしか無かった時代。
しかしながらそのずば抜けた聴覚から醸し出す音色は独特の味があり、多くの人々に感銘を与えた。


特に津軽全域で年に数回行われる神社などの祭礼には欠かすことが出来ない大切な収入源だったという。
農繁期に農民は田圃に出てしまうので角付けをしても家に人がいなく収入にならない、主に角付けは農閑期に行われたそう。

冬は雪で角付けが出来ないので座打ちと言って、主に村の金持ちの家に何日か逗留し、村人に三味線、唄、鳥や動物の鳴き真似などの芸を披露して生活の糧にしてたそうだ。

津軽三味線は盲人がやるものと決まっていたが、その魅力に取り憑かれた青眼者がやる様になったのが明治の中頃からで、次第に青眼者にも広まる事になる。
しかしながら、もともと世間から蔑まれてた盲人の坊様芸は、青眼者がやってもさほどその評価は上がらず、社会的評価はずっと低いままだったのである。

津軽三味線が注目を集めるのは、一座を組んで東北一円や北海道をまわっていた興行が戦争で次第に下火になり、戦後の復興景気で津軽の芸人が東京に出て来た昭和30年代からである。

白川軍八郎、木田林松栄、高橋竹山、福士政勝、小山貢、山田千里、佐々木孝、高橋裕二郎、藤田淳一、澤田勝秋、五錦竜ニ、各氏の活躍により次第にそのファンは確実に増えては行ったが、あいも変わらずその職業の社会的地位は決して高くはなかった。


それはあくまでも盲人坊様の芸だとの先入観から抜け切らない、蔑んだ意識が特に青森や秋田や岩手の人々に伝統的に受け継がれて来たせいだろう。



つづく

津軽三味線は明治の初期に青森県の北津軽郡金木町神原で生まれ、その幼少期に失明した仁太坊事、秋元仁太郎が生きる為に三味線を懸命に覚え角付けをしたのがその誕生だと言われている。 

角付けとは各家々の玄関先で三味線を演奏し、僅かばかりの米などの品物を貰う事である。
当時度重なる飢饉に見舞われてた津軽地方は、普通の人でも生きる事が精一杯な時代、まして盲目の方々は家族のお荷物であった事は容易に想像出来る。

そんな中を必死に生き延び、独特な音楽を作り上げた盲目の津軽三味線奏者は、長いその歴史の中で蔑まされる存在を生きながらも、角付けでいかに多い米を貰う為にその研究に余念がなかったと言う。
それは好きでやるのではない、まさしく生き延びる為なのである。

その過酷さは最後の角付け芸人と言われた高橋竹山氏が定期的に行った渋谷じゃんじゃんでのライブで、あるいは地元青森のテレビ局やNHKが制作した番組等でも詳細に語られている。


津軽三味線が注目されている現在、竹山氏の生き様を、寒撥  のタイトルで全国上映されているので是非ご覧いただきたい。

いずれにせよ、津軽三味線で生きるその過酷さは筆舌に代え難い壮絶なものであったことは確かだ。


そんな津軽三味線を少し考えてみたい


つづく

昨日の大分県日田市は好天に恵まれ何と最高気温が30度の真夏日。
令和の幕開けのお祝いムードで開催された記念すべき中九州地区連合大会はパトリア日田で9時45分から式典に続いて、小学生低学年からコンクール開始。





出場者は団体も含めて140人ほどで、驚いたのはその8割以上が若い方々。
全国の地区連合会でこれほど若い方々がいる所は見当たらない。

吉富今日子会長が43歳、脇を固める副会長の高橋浩寿が36歳、古閑一行48歳。
やはりリーダーが若いと若い方々が付いてくる。
将来がとても楽しみな中九州地区連合会です。





           40人による六段合奏も私がたてを取ってバッチリ決まりました。


12月の全国大会で内閣総理大臣賞争奪戦の切符を手にしたのは20歳のお嬢さん、片渕  笑(えみ)さん。





佐賀箪笥長持唄を素晴らしい節回しで唄い上げました。


とにかく楽しみな地区連合会です。
今後のご発展を心から祈念致します。


お世話になりました。

半年ぶりに大分県日田市に来ています。
昨年立ち上げた中九州地区連合会の第1回連合大会の審査でお邪魔しました。





昨日が仕込み日で準備のお手伝いをしましたが、若い会長の吉富今日子さんの元に、おそらく全国の連合会で1番若い方の数が多いのがここの連合会だと思います。


新しき令和の時代、若さ溢れる連合会に大いに期待をしながら、1日審査をさせていただきます。

先月の第10回秋田民謡全国大会、秋田荷方節三味線コンクールで優勝した、訓音の記事が昨日、中日新聞に掲載された。





2回目から参戦し、苦節9年で今年を最後と決め背水の陣で臨んでの優勝は、色々な思いがが交錯して何とも言えない感動だろう。

それもそのはず、過去8回で訓音は準優勝3度、3位3度とあと一歩のところで涙を飲んでいる。
しかも後輩が次々に先を越して行く中での自分に対する悔しい思いは想像して余りある。

やはり人間諦めては駄目だ!継続してきたからこの様な結果を招くのだ。


焦るな!   腐るな!   負けるな!  諦めるな!


訓音よ、良く頑張りました。


あらためて、おめでとう㊗️🎊🎉。

先日何かでこれを見て、なるほどと思い書きとめておいた。


【 言って良い事   悪い事】   【言って良い時   悪い時】   【言って良い人   悪い人】に普段から気を配らなければならない。


なるほどこの3つは日頃から気をつけたい言葉です。

2日間にわたって行われた、第58回日本郷土民謡協会春季大会が無事に終わりました。





2日とも晴天に恵まれ、連休で人出も心配されましたが思った以上に多くのご来場をいただきました。
6年続けてきた津軽三味線六段の合奏は250名での演奏、何回も出演してくれた方々も多く息の合った良い演奏が出来ました。





昨年の全国大会もそうでしたが、この合奏を楽しみにしてる方が多いと見え、始まる前に明らかに客席の人数が増えて、終わった途端に半分くらいは出て行きました。
もはやこの大合奏は郷民の名物になっているようです。

事故無く、皆さん笑顔で帰られた事が何よりです。
最高責任者としての務めを果たせてホッとしています。
大会にかかわってくれた全ての皆様に感謝致します。


ありがとうございました、そしてお疲れ様でした。

一昨日から東京入りして第58回日本郷土民謡協会春季大会を文京シビックホールで行なっています。
連休にもかかわらず多くの方々のご来場をいただいております。


今日は楽日、理事長としてしっかりと努めます。












津軽三味線六段合奏は訓栄が仕切ってくれてます。

新たな時代、令和が幕を開けた。
即位された新天皇、皇后両陛下に謹んで心からお慶びを申し上げます。

新しい時代ははたしてどの様な時代になるのでしょうか?
平成の時代はインターネットの時代と言っても過言ではない。
携帯電話の普及が日本の総人口を上回る、一人一台の時代が来るなど誰が想像出来たでしょうか。
日々進化するシステムにとても私などはついていけないがそれでも、その便利さを享受し生活の一部になっている。

令和の時代は更にそれが加速され、クローン技術の進化や、自動運転など昭和の時代では夢物語の世界が現実として見られるのはワクワクする。

藤秋会も40年をむかえ、変わりゆく民謡界においてどう生き残って行くかが大きな課題である。
何れにせよ、新たな令和の時代が争いや災害のない平穏な世の中になる事を祈念したい。

平成もいよいよ終わる。
昭和から平成に変わった時は昭和天皇の崩御によりどことなく暗く、自粛ムードだったが、今回は生前退位による移譲なので祝賀ムードで、新しい令和の時代に期待も大きい。

平成の30年は藤秋会にとって実りある大きく羽ばたけた時代だった。
大きな自主公演は海外も含めて30回を数え、劇場公演なども200公演以上出演させていただき、各大会でも35回を数える優勝は大いに誇れる数字だ。

改めてこの平成を頑張ってくれた会員に感謝をしたい。
私も今の年齢の半分近く、しかも一番人生で最も輝け活躍できる30年を平成と共におくれた事はとても幸せだった。

新しい令和の時代の民謡界は少子高齢化により、多難な船出にはなりそうだが、その状況の中でも必ずや生き残る活路はあると信じ新たに時代に船を進めたい。
荒海を乗り越える先に我らの夢を叶える光があることを信じて。


30年の長きに渡り常に国民に寄り添いそのお勤めを果たされた、天皇、皇后両陛下に心から感謝申し上げます。
お疲れ様でございました。


ありがとう平成。

新たな歴史、令和まであと3日を残すのみとなりました。

昨日は平成の幕開けと共に30年前の1月から始まった姫路教室平成最後のお稽古でした。






歴史をまたいでも続けられることに心から感謝です。

今日から世間では10連休だそうで年末年始やお盆の休み以上に混みそうだ。
私は貧乏暇無しで連休には縁がないが、昨日の移動も物凄い人混みにこの歳になると荷物を持っての移動は些かゆうつだ。

電車もそうだが高速道路も渋滞で混雑している。
車と言えば最近渋谷での高齢者運転の事故は親子を巻き込んで死亡させ、大変痛ましい結果になった。

私の親も加害者と似たような年齢で数年前に免許を返上させたので、あぁ~あの時返上させて良かったとつくづく思う。

田舎なので車が無いと不便だし、自分ではまだ大丈夫だと言っていたが、高齢者運転の事故が連日の様に報道されていたので、もしも人でもひいて取り返しの付かないようになる前に諦めさせたのが良かったし、親父もわりとその事は理解して応じてくれた。

歳をとると動作が緩慢になり判断力が衰えるのは当たり前で、ではどの時期に決断するかが大事だが、やはり家族がしっかりと状況を把握して、その時期を逃さないようにしないと今回のようなケースが後を絶たなくなる。

犠牲になった親子は突然夢ある人生を絶たれてしまい、ご家族も何とも受け入れがたい現実だろう。
今回の加害者は車の発進停止に最も大事な役割を果たす足に問題があり、近所の方々も運転がおぼつかない事を感じてたと言う事は、いつかこの様な事が起きる事は想像出来たはず。

勿論家族もわかっていたはずで、その状況から起こりうる事をしっかりと認識して免許を返上させていれば、今回の悲劇は免れて尊い命とその家族を救う事が出来た。

私は幸いにしてその前に理解してくれたので良かったが、歳をとると段々と子供に帰ると言われるので、その様な状況に達したら家族がしっかりと判断してやらなければならないと痛感した。

それと、この様な車の事故にかかわらず事件などで突然人生を終わらされるニュースはもはや人ごとではなく、そんな状況がいつ来てもおかしく無い事を認識し、日々を悔いのない様に過ごしたいものだ。



この連休にそんなニュースが無い事を願いたい。

来年の藤秋会40周年記念公演、夢舞台2020に今までと違う舞踊団体に出演をお願いし、先月東京の事務所にご挨拶に伺って過去の公演の動画を見てなるほど素晴らしいと思った。

しかし生で観たことはなく、たまたま昨日東京で公演があるとお聞きしたので、練馬文化センターにお邪魔した。





今までもそうだが、いくら紹介者が素晴らしいと言えども、お客様に喜んでいただく為には自分の目で確認して曲目を選定したい。

なるほど今までゲスト出演してくれた団体も素晴らしかったが、今回の団体は明らかに総合的に上だ。
ひとりひとりの技術がしっかりしていて、フォーメーションも素晴らしく衣装も華やかで垢抜けしている。

これは本当に感動ものだ。

中の一曲は動画でも感動したが生は更に素晴らしく、あまりの感動に涙が出てきた。
必ずや喜んでいただけることまちがいなし!


乞うご期待!

昨日改修で1年間休館してた愛知芸術劇場の説明会に行って来ました。
ここで何度もやりましたがやはりこのホールは良い!









バックステージから見ると客席はこんなに遠くに見えます。
会館管理で入っている舞台関係者が覚えてくれていて声をかけられました。
改修で上手舞台のスライディングが使えなくなり、バックステージの廻り盆も撤去されたそう。

なぜ撤去されたかと言うとズバリ需要がないのに維持費がかかるための判断だそう。
ここの機構をフルに使ってやるのは藤秋会さんぐらいでした、と言われええ~、そうだったんだと驚きました。

ここは本格的なオペラをやるために舞台を3つにし転換が早く出来る様に機構を駆使して最高の演出が出来る。
当時は東洋一の劇場とか言われてましたが、オペラで国内ツアーをまわるにしても、ここでは出来ても他のホールでは同じ転換が出来ない。
どうしてもどこでもやれる演出にする為、機構をフルに使うことがなくなったそうです。

ここでは機構をフルに使いあらゆる事をやったので、それが出来なくなると思うと寂しさはありますが、これも仕方ありません。

しかし本舞台のセリも使えるし、バックステージをそのまま出す事は可能なので、普通のホールからすればかなり大胆な事は出来ます。
限られた環境で最大限の事を演出を駆使してやります。


頑張るぞ!!

北海道地区連合大会で第44回全国大会グランプリ部門で内閣総理大臣賞を受賞した方が白老町在住の菊池錦秀さん。
今年もタイトルホルダーとしてアトラクションで素晴らしい唄声を披露してくれた。





おん歳84歳ながら全く優勝当時と変わらない美声に会場のお客様は大喜び。
優勝曲、津軽よされ節、アンコールで津軽小原節とあいや節を熱唱。

なかなかこのお歳でこれだけの唄を唄える人は珍しい。
弟さんで昨年亡くなった菊池鉄男さんの唄も定評があったが、味わいはお兄さんので方が優ってるか。
何と来年もう一度挑戦すると言うのだから凄い意気込みだ。


唄のでグランプリ部門で2度内閣総理大臣賞を獲った方は確かいないはずなので是非達成してほしいものだ。
こういう唄が本当に良い唄、なかなか真似して出来るものではないだろうが、是非聴いて学んでほしい唄だ。

日本郷土民謡協会、北海道地区連合が主催する郷土民謡民舞全道大会が昨日、旭川で行われ審査を務めました。








出場者は9部門122名でコンクールが行われ、12月に行われる全国大会内閣総理大臣賞争奪戦の出場権を得た方は、昨年と同じ鴎優会の井村智惠さん。
唄は南茅部鱈釣り口説。

天性の自然な節回しとどっしりと安定感のある声が何とも言えない魅力があり、感動で思わず目頭が熱くなった。
それほど良い唄である。





全国大会には各地区連合会の優勝者が集うので決して簡単ではないが大いに期待出来るおひとりです。





そして少子化で民謡を学ぶ方が少ない中でこのような方々はまさに宝物。
どうかずっと続けて将来の民謡界の担い手になってもらうようお願いしたいです。


朝10時から6時半までびっしりの審査でしたが素晴らしい大会でした。
菅野会長はじめ関係各位のご尽力に感謝致します。



ありがとうございました。